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アルノー・デプレシャン『クリスマス・ストーリー』


クリスマス・ストーリー Un conte de Noël (2008)

傑作ともまた違う実に豊かな作品。
歴史=血縁が細胞レベルにまで分解され、『キングス&クィーン』にあった「カタストロフィー」と「再生」すらない作品といったらいいでしょうか?

ガンである母親(ドヌーブ)を救うため、骨髄移植の適合検査をした一族が、クリスマスの3日間、ドヌーブの元に集まり、彼らによって悲喜こもごも豊かなエピソードが積み重ねられる。
その語りの多様さ、主題の複数性、どれも前作の『キングス&クィーン』を圧倒しているのに、『キングス&クィーン』以上にある単純さにも支配されている。
それは「人がいて、それぞれと関わり合いながら、生きている」ということ。
つまり誰もが等しく抱える「人生そのもの」が写っているだけ。


この作品に存在する特殊性----ネガティブな長女、乱行奇行のアマルリック、情緒不安定な長女の息子、アマルリックの弟である旦那の従兄を愛す るキアラマストロヤンニたちの言動は特殊性を抱えつつも、それは一つの個性と言わんばかりに、ドラマを隆起させる要素は剥奪されルーティンに埋没していく。

つまりこの作品は、歴史=血縁というマクロな視点から物語を構築するのではなく、ミクロの視点で見つめ続けた物語の集積といえるだろう。しかも中心がない。
現代の作家の多くが採用してきたマクロの視点というものを破棄した作品であり、しかも自己中心的な閉ざされた個(ミクロ)での表現でもないというのが本作の面白い点。

そのマクロの視点の作家とは、大雑把に言ってしまうと、例えば青山真治やアモス・ギタイなんかがそうであるのだろう。あるいはレオス・カ ラックスの『ポーラX』なんかも含まれるのかもしれない。彼らは80年代90年代を通じて歴史の表現の不在を正すべく、歴史を再導入し、マクロな視点 で世界を表現しようとしてきた。それは必然のように正しい所作であったし、刺激的な表現でもあったのですが、一方で僕は常に、今ある自分との乖離も感じずにはいられなかった。
例えば僕が青山真治に抱えていた不満は、まさにそういった所にあった。『ユリイカ』の冒頭で「3年後」という字幕によってすっ飛ばされる、事件発生からの3年間。僕らと等価であるはずの役所広司や宮崎あおいの何でもない=何もない日常は奪われてしまった。
僕が松岡錠司や橋口亮輔や犬童一心に惹き付けられるのは、彼らがミクロな部分を見つめ続けているるからだと言えるのかもしれない。

いずれにしてもデプレシャンは、本作で血縁という縦軸(マクロ)を見事に無化し、個々の生(ミクロ)を見事に紡ぎだしている。

幼くして白血病で死ぬ兄を救うべく宿されたアマルリックは、結局兄とは適合せず、役立たずとして生まれ、家族の金を盗み財産を食い潰すろくでなしに成長する。
そんな彼が血を実感するのはドヌーブとの適合がわかったことからであり、しかしそれはわかっただけで不仲の再生には繋がらない。
映画はドヌーブの手術の成功を長女のナレーションで知らせて終わる。

ドラマは隆起しない。「たまたま」あるいは「幸運にも」ドヌーブは延命できたというだけ。それぞれの人生は何事にも構うことなく進んでいく。大団円なき本作はそうであるが由に、個々の出来事が特権化されることもなく、等価の重みを損なわない。


かつて甲本ヒロトは『情熱の薔薇』で
「なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せ」を「なるべくいっぱい集めよう」と歌う。
でも「なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せ」は、「なるべくいっぱい集められる」ような自由意志で得られるものではなく、それしかないというのが本当なのではないだろうか?
幸も不幸もいろいろある。そのどれもが、実は細胞のように「等価な重みしかない」のである。
『クリスマスストーリー』はその等価の重みの細胞を見つめるミクロな目線の作品だと言えるだろう。
でも『世界の中心で愛を叫ぶ』のように、ミクロな自分の特殊性を絶対化する作品とは真逆である。

特殊な自分の「特殊さ」を無数に広がる世界に投げ出すこと。
『クリスマスストーリー』は、今を生きる特殊で平凡な人間たちのありふれた物語を紡いだ、他でもない「僕」や「あなた」の映画である。


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