クリント・イーストウッド『クライ・マッチョ』

老齢になり、ますますとぼけたキュートさを増すイーストウッドの監督主演作は、
あまりにも軽やかで、かつ意味深なタイトルから、
あるいは「マッチョは過剰に評価され過ぎた」というセリフから
「男らしさからの離脱」とも「新境地」とも言われることが少なくないのだけど、果たしてそれは本当なのだろうか?

冒頭のギアを操るイーストウッドの手のアップから始まる、手と手の繋がり、手当て、手話、手料理、手綱、修理、
そして手と手を繋ぎ踊るダンスと
あやゆる手のバリエーションによって演出された作品。

確かに銃は発砲されない。
人に向けられるのも2回だけだ。
その意味で銃はいわゆる男性のシンボルとして機能しない。
しかし、これまでのイーストウッド作品の銃の使用を手作業のバリエーションとして読み替えるなら、
本作が全く通常運転のイーストウッド作品でもあるとも言える。

少年を母親の元に連れ戻そうとする男には躊躇せず拳をあげるし、
カウボーイの象徴でもある帽子を簡単には貸さない態度からも
男としての闘志も誇りも捨てていないし、
持ち主ですらお手上げの荒馬を調教してしまう身のこなしから、男性的な肉体の強さも保持していることがわかる。
なお、この調教シーンは明らかにスタントを使っていることがわかるが故に、明確な演出意図を読み取れる。
イーストウッドが演じたマイクは「男らしさ」から微塵も降りていないのだ。

ただ、老齢になり、マッチョ以上に価値のある経験値を身につけただけ。
『運び屋』と同様に独特の嗅覚で危機を回避すべく迂回する術は、
武術の達人の「戦わない強さ」のようでもあるし、
老衰の犬への処方や、少年に本当のことを知らせるのを遅らせることは、「嘘も方便」を知っている、痛みに対する優しさだ。


さらに、メキシコ入国時にすぐ前のギャル達の連れだと冗談を言ったり、
少年の母親に迫られて満更じゃない顔をしたり、
麻薬の運び屋と間違える警官を少年が賄賂を使ってスマートにあしらうのに対して、
グダグダと罵詈雑言を呟き続ける大人気のない俗人ぶりを嬉々として演じるイーストウッド。

マイクの物語は、かつてのロデオ英雄の失落からのオルタナティブでも、セカンドチャンスでもなく、
また、男性性からの解放でもなく、
バカな若者(『15時17分、パリ行き』)や、キモいミリヲタ(『リチャード・ジュエル』)と同様の、俗人に宿る草の根のアメリカを体現している。


かつて監督第三作目『愛のそよ風』で、
年齢も文化も全く違う中年男性と少女との悪戦苦闘して到達するラストが、
出会った瞬間から訪れてしまうような、
荒唐無稽かつ至極の恋愛。

街の人間との信頼関係もあっけなく、あっという間に築いてしまうし、
物語をサスペンスフルに駆動する敵対的な存在でもあった保安官補の疑念から信頼に変わる過程が悉く素晴らしい。
それを観客にしかそのことに気付かせないのも良い。

中盤からの街のシーンにおけるあまりの多幸的な時間に、ただただ酔いしれる。

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