漢陽寺

おいでませ 詫び茶の茶の湯文化 発祥の地 漢陽寺へ

大本山南禅寺派別格地鹿苑山漢陽寺は 1374(応安7)年 大内盛見 開基
http://kanyouji.or.jp/

守護大名 大内(おほち)氏の 祈願所として建立された
山口県屈指の名刹である

漢陽寺は 詫び茶の茶の湯文化 発祥の地と想われ
https://www.otera-cafe.com/kanyoji
胴部に龍が描かれた室町時代の茶釜が発見されて
周南市文化財になっている
https://www.city.shunan.lg.jp/soshiki/56/3422.html

詫び茶の茶の湯文化は
周防國 山口に 京が移った時代に 発祥したのではあるまいか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3

室町時代とは 京都の室町に幕府が置かれていたことに由来するが
足利尊氏が 大内弘世を 防長二国の守護職に任ずることを条件に
北朝側に引き入れることに成功した後
大内弘世が 本拠地を 山口に移した
1363(正平18/貞治2)年の 時点から
実質的に 西の京 山口 の時代が成立している ☆

1399(応永6)年 応永の乱 あり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1

京都市 右京区 の 栂尾山にある 高山寺の 近くを流れる 
http://www.kosanji.com/chaen.html
清滝川の 対岸での 日本最古之茶園に 始まったとされる
https://chakatsu.com/shop/kyoto_kosanji/
栄西(ようさい) 以降の 茶の湯には
朝廷の茶の湯 武士の茶の湯 町人(まちびと)の茶の湯 があったが
詫び茶の本質からして 都での 詫び茶の発祥は あり得ない

京都の郊外であることと 浄土の方角  < 西 >  が 必要条件となる

おいでませ 山口 へ の < おいでませ > とは
西の京 山口時代での 京ことばの 余波(なごり)

京を離れ 西の京 山口での 茶事が 詫び茶となった と視(み)る ☆

そして 詫び茶の 茶の湯が 精神文化として発祥するには
禅寺での 茶の栽培と 仏事が必要であった

主は禅師 客は武士

つまり 周防山口の 鬼門封じ として
守護大名 大内(おほち)氏の 祈願所として建立(こんりゅう)の
周防國都濃郡 鹿野上村 漢陽寺(かんようじ)こそ
詫び茶の茶の湯文化 発祥の地 と云える

漢陽寺には 鹿野(かの)茶 が 伝わる
https://www.oidemase.or.jp/nishinokunikara/materials/14

周防國都濃郡には 多々良氏の本家 鷲頭氏の降松(くだまつ)神社がある

ところで 『喫茶養生記』を著し お茶を日本に広めたのは
明菴栄西(みんなんようさい)禅師 と伝わる
http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup01.htm

栄西(ようさい)は 日本における臨済宗の開祖で
廃れていた 喫茶の習慣を 日本に再び伝えたことでも知られる

1158(保元3)年に 大宰大弐となった 平 清盛 は
日本で最初の人工港を 博多に築き 日宋貿易を本格化

仏教経典の輸入は 鎌倉仏教にも影響を与えることとなった
http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/167.html

1168(仁安3)年 栄西は 形骸化し 貴族政争の具と堕落した
日本天台宗を立て直すべく 平家の庇護と期待を得て 南宋に留学

1191(建久2)年 帰国の際に宋で入手した
茶の種を 持ち帰って 栽培を始め
日本の貴族だけでなく 武士や 庶民にも
茶を飲む習慣が広まる きっかけを作った と伝わる

鎌倉時代の 1195(建久6)年
博多に 日本最初の本格的な禅寺 聖福寺 を建立し 禅道場を開いている

1202(建仁2)年 京都 東山(ひがしやま)に
元号を 寺号としての 東山(とうざん) 建仁寺(けんにんじ)を 創建
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E5%AF%BA

それから 100年以上を経ての 鎌倉末期 1325(正中2)年に創建の
京都 大徳寺が 茶の湯の世界では 縁が深いこととされているが
室町時代の 一休宗純や 村田珠光 以降の 京都は
雪舟が 周防國に移っているように
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E8%88%9F
応仁の乱で 禅の修行など できる環境になかった史実がある
http://sessusummit.jp/about_sessyu/index.html

よって 京都 室町から 西の 山口へ 京が移った歴史によって
詫びの世界が 山口 大内(おほち)文化として 啓(ひら)かれ
茶の湯が 詫び茶の文化として開化されるに至ったのである ☆

瑠璃光寺の五重塔(1442年)の完成は 銀閣寺(1490年)よりも 50年早く
山口県内での お茶の栽培の起源が 約六百年前であることと符合する
http://www.geocities.jp/mamehiko6636/nihonchanosanchi.html

中国や朝鮮半島との貿易に名を馳せた 守護大名 大内(おほち)氏は
日本にあるベスト3の 花入 茶碗を 所持していた
http://oouchibunka.jp/ouchishi/column/18.html

守護大名 大内文化 なくして 日本の茶の湯文化は 語れないのである

1374(応安7)年 漢陽寺 創建

開山は 用堂 明機(みんき)禅師

1455(康正元)年に創建の 妙喜寺(現在 常栄寺)にある 
http://yamaguchi-city.jp/details/ab_sesyu.html
雪舟庭は 大内正弘が 画聖雪舟に命じて築庭したものと伝わる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%94%BF%E5%BC%98

妙喜寺 雪舟庭が 周防 山口に 完成した頃には
https://www.youtube.com/watch?time_continue=332&v=bwwWNqQQqYk
詫び茶の茶の湯文化は 西の京で 確立していたと 云えるだろう

「大内館(おほち やかた)のある 当時の山口の町には
 唐本屋があり 茶の湯 茶室 生け花に あふれ 出版や宗論が盛んで
 西の京とよばれるにふさわしい活気ある姿をみせていました」
との 記録が残る
http://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/support/theme/oouti/onaka.html

戦国の世に 詫び茶の茶の湯から 茶の湯政道へと 歩んでいくことになる

南無阿弥陀仏 鯉修

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