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追悼、筒美京平。麻丘めぐみと岩崎宏美と桜田淳子を手掛けた名ディレクター、笹井一臣の回顧録

 麻丘めぐみの「芽ばえ」「わたしの彼は左きき」、岩崎宏美の「ロマンス」「センチメンタル」、桜田淳子の「しあわせ芝居」「リップスティック」。
 これらの大ヒット曲を手がけたのは、すべて同じディレクターと知っているだろうか。ビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)のレコード・ディレクターだった笹井一臣さんだ。

「亜麻色の髪の乙女」で知られるヴィレッジ・シンガーズのベーシストという顔も持つ笹井氏に、1970年代歌謡ポップス史の貴重な証言を聞いた。(笹井さんの承諾を得て掲載しています) 

--ヴィレッジ・シンガーズが「バラ色の雲」でヒットを飛ばしたのが1967年。「亜麻色の髪の乙女」が68年。笹井さんは69年に脱退して、ここからすぐビクターに入ったんですか。

笹井 そうです。ヴィレッジはホリプロの所属で、ぼくの父がホリプロの副社長だった。父(笹井英男)は後に山口百恵の作品なども手掛けた映画のプロデューサーだったんですが、ぼくが「レコード会社でディレクターをやりたい」って言ったら、ビクターがたまたま人を探していて紹介してくれた。最初はRCAレーベルに配属されて、1年くらいは宣伝担当でした。

--当時は「演歌のビクター」と呼ばれていた時代ですね。

笹井 藤圭子さんやクールファイブの新譜が出ると、それを持ってテレビ局を回ったりしてました。新人の売り込みをしたりね。ヴィレッジ・シンガーズの頃のつながりで、多少はテレビ局に顔が利くだろうと思われていたようです。
 宣伝を1年くらいやって制作部へ移りました。ビクターが新しいレーベルを作って、邦楽のポップス系の制作を始めるからそこのディレクターになれ、と。それで縁があって担当になったのが麻丘めぐみでした。

芽生え麻丘めぐみ

●麻丘めぐみに「歌手にならないか」

--麻丘めぐみは、お姉さんが歌手で、自身も「週刊セブンティーン」などの少女雑誌でモデルをやっていた。

笹井 そうです。ルックスもかわいいし、彼女に「歌手にならないか」と口説いたら、本人は「お母さんに聞いてくれ」って最初は乗り気じゃなかった。

--麻丘めぐみさんが語る話では、当時は母と姉と3人で上京して、お風呂のないアパートに住み、「私がデビューしないとお姉ちゃんが歌手を辞めなくちゃいけなくなる」と思って、姉のために引き受けたとか。

笹井 お姉ちゃんは全然、売れなかったからね。そうそう、めぐみという芸名はぼくが付けたんです。そしたら彼女は朝丘雪路が好きで「あさおかって付けてもいいか」と言うから、じゃあ違う漢字ならいいだろうと「麻丘めぐみ」になった。

--麻丘めぐみは72年6月に「芽ばえ」(作詞・千家和也、作曲・筒美京平)でデビュー。いきなり大ヒットして、この年のレコード大賞最優秀新人賞も受賞しました。でも、レコーディングのときに「ディレクターに声がかわいくないと言われ、ショックで泣きながら家に帰った。もともと低い声にコンプレックスがあったから」と、本人が語っています。

笹井 いや、その話は違うなあ(笑)。麻丘めぐみは最初に歌を聴かせてもらったときから、泣き声がいいな、泣き節がいけそうだなって思って、筒美京平さんともそんな話をしながら依頼したんですよ。

--泣き声とは、ちょっと無理をして出す高い声というような意味ですね。筒美京平さんとはヴィレッジ・シンガーズの頃からの付き合いですか。

笹井 「バラ色の雲」は京平さんの曲でしたからね。「芽ばえ」というタイトルは、同じ題名のイタリア映画があって、ああいう清純な路線でやろうってことで付けました。2枚目の「悲しみよこんにちは」も映画のタイトルシリーズです。最初の2曲はアレンジも高田弘さんにお願いして、フォークっぽい感じになっています。

●麻丘めぐみを清純路線からエッチ路線へ

笹井 でも「芽ばえ」がヒットして、渋谷公会堂でワンマンのステージをやったんですけど、会場がちょっと異様な雰囲気なんですよ。ミニスカートの麻丘めぐみを見る目が、なんというか、自分の彼女に酔いしれているみたいな。ああ、これは清純派より、オナペット・スターみたいな方向に持っていったほうがいいのかなって。
 それで千家和也さんに相談して、3枚目の「女の子なんだもん」あたりから、歌詞にエッチっぽい言葉を入れるようにしたんです。千家さんはもともと英語の曲を和訳する仕事をしていた人で、なかにし礼さんのお弟子さんだった。

--あらためて歌詞を見ると、せいぜい「結ばれる」とか「経験してる」とか、そんな程度ですね。でも、当時のボーイズにはこれが衝撃的だった(笑)。
 さらに5枚目のシングル「わたしの彼は左きき」(作詞・千家和也、作曲・筒美京平)が、社会現象まで引き起こす大ヒットになりました。このレコードに入っている拍手の音も笹井さんだとか。

笹井 あれは一番売れました。あの頃、左利きは「ぎっちょ」って言われてて、千家さんと話しているうちに「ぎっちょというテーマでやったら面白いかもね」ってことになったんです。
 制作の途中から筒美京平さんが「いい曲になりそうだよ」と言ってました。ラフスケッチだけ聴かせてもらったら、シャッフルを利かせてステップできるようなリズムで、ああ、こういうノリはいいねって。

 京平さんは〝ツボ〟を知ってますよね。こういうフレーズを使えば売れると、わかっている。天才だし、勉強家でもある。あの頃、原宿に輸入レコード屋があったんですけど、京平さんは1度に百枚くらい買うんですよ。本当に音楽の虫で、趣味は音楽と食べることしかない。

--トップアイドルになった麻丘めぐみでしたが、74年3月、日劇でのコンサート中に舞台から転落して大ケガ。半年間の活動休止を余儀なくされ、この辺からレコードのセールスも落ち込んでいきます。8枚目のシングル「白い部屋」の発売直前の事故だった。

笹井 ぼくの担当もその頃まででした。でも、休養したせいで売れなくなったのか、もうその頃には売れなくなっていたのか。本人があまり歌手として前向きじゃなかったんですよ。すぐ結婚して、引退しちゃったでしょう。

--77年に21歳で結婚引退でした。最後に個人的な思い出を追加して、このパートを終わりにします。麻丘めぐみが最優秀新人賞を取った72年のレコード大賞は、10歳の私がテレビの前に録音機を置いて、初めてテレビの歌をカセットテープに録音した番組でした。
 だから、麻丘めぐみが泣きながら歌う「芽ばえ」は、今でも耳に焼き付いている。この年のレコード大賞は、ちあきなおみの「喝采」。最優秀歌唱賞は和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」。受賞に混乱した和田アキ子が、ジュリーをステージまで引っ張っていったあの年です。

●筒美京平と相談した岩崎宏美の歌唱法

--続いて、岩崎宏美さん。デビューは75年4月の「二重唱(デュエット」(作詞・阿久悠、作曲・筒美京平)。こちらも初代ディレクターが笹井さんですね。

笹井 岩崎宏美は「スター誕生!」の出身で、上司から「どう思う?」って聞かれたから「声の伸びもあるし、いい声ですね」って言ったら、「おまえが担当しろ」と。
 ただ、彼女は松田トシさん(スター誕生の審査員もつとめた声楽家)に習っていて、童謡みたいな歌を歌っていたんですよ。クラシックもやっていて、ベルカント唱法(横隔膜を使ったオペラなどの伝統的な発声法)みたいな歌い方だった。

 だから筒美京平さんと、ヒットソングを歌わせるには少し考えないといけないですねって話をしました。声を聴いてみたら、これはバラードを切々と歌うよりも、縦のリズムを刻むのがいいんじゃないか、16ビートのサウンドに乗せて、彼女の伸びのある声の質感をやったら面白いんじゃないかと提案したら、京平さんも「いいね、そうしようそうしよう」って。
 ちょうどアメリカでディスコミュージックが流行り始めていた頃で、スタイリスティックスとか、ヴァン・マッコイとかね。女性シンガーだとグロリア・ゲイナーのようなイメージで、伸びやかな声を活かそう、と。

--すると2枚目のシングル「ロマンス」が大ヒット。これは岩崎宏美ファンの間では有名なエピソードですが、B面の「私たち」とどちらをA面にするかで最後まで意見が分かれ、スタッフや宏美さんを含めた7人で投票した結果、1票差で「ロマンス」が上回り、こちらがA面に決まったとか。

笹井 そう、上司のおじさんはディスコが嫌いだから、編成会議で意見が分かれたんですよ。デビュー曲の「二重唱」は、あれは〝元気印〟にしようとしたの。甲高い声でいきなり「あ~なたがいて」と始まるでしょう。でも、どうしてもディスコティックがやりたかったから、ぼくは「ロマンス」がいいって会議で大見得を切った。

--岩崎宏美さんが語るところでは、作詞の阿久悠さんは「ロマンス」に投票。宏美さんも「朝の番組で歌うには、声を張り上げる『私たち』より歌いやすい」と「ロマンス」に投票。筒美京平さんは「息がかかるほどそばにいてほしい、というロマンスの歌詞は色っぽすぎるのではないか」と「私たち」に投票した、とされます。

笹井 あ、そうですか。京平さんのその話は聞いたことがなかったな。ぼくには「笹井さんがディレクションをやってるんだから、好きなようにやればいい」って言ってくれた。「ロマンス」はオリコン1位を獲りましたからね。1位を獲ったら、会社は何も言わなくなりました(笑)。

--このときB面になった「私たち」も、コンサートでよく歌われる名曲になりました。岩崎宏美が他のアイドルと違っていたのは、B面やアルバム収録曲まで、質の高い曲ばかりだったことだと思います。

笹井 アルバムでは実験的なこともやりました。『ファンタジー』という2枚目のLPで、全部16ビートのディスコ・バージョンをやりましょうと、ニッポン放送のDJだった糸居五郎さんにお願いして、曲と曲の合間にDJのしゃべりを入れてもらった。

--そのアルバム、買いました。糸居五郎の「はーい、ごきげんいかが」で始まり、お得意の「ゴーゴーゴー、アンド、ゴーズオン!」で曲に入る。あれは斬新だった。

笹井 あれはビクターの中ですごく反対されたんです。普通のLPを出していれば、もっと売れたのにって。
 でも、京平さんは賛同して誉めてくれたし、糸居さんも面白いアイデアだねってノッてくれた。ポップス歌手が全編DJ入りのディスコ・アルバムを出すなんて、誰もやってなかったんじゃないかな。

ファンタジーLP

●岩崎宏美の担当を突然交代。阿久悠と大ゲンカ

--シングルに話を戻すと、その後も「センチメンタル」「ファンタジー」「未来」と大ヒットを連発。8枚目の「想い出の樹の下で」まで、すべてA面B面とも阿久悠&筒美京平コンビでした。

笹井 「想い出の樹の下で」は、社内で不評を買ったんですよ。もっと作り込めって言われた。でも、ホームランを打てる楽曲って、毎回そうできるもんじゃない。ホームランは無理でも、ヒットを打つこと、いかに3割バッターでいるかも大事なんです。

 そういうことを話したんだけど、宣伝部長と揉めてね。ぼくも若かりし頃で突っ張った。そしたら突然ですよ、岩崎宏美の担当が次の曲から飯田久彦さんに替わってしまった。

--ディレクターの交替というのは、そんなに急に決まるものなんですか。何ヶ月も前から知らされているのかと思ってました。

笹井 このときは急でした。納得いかなかったですよ。岩崎宏美は売れていたのに「なんで!?」って。でも、仕方ない。
 それと「想い出の樹の下で」は、阿久悠さんともタイトルで大ゲンカしてしまったんです。ぼくは「想い出の樹の下『を』」にしようとしたんだけど、阿久悠さんに「『を』と『で』じゃ大違いなんだ!」と怒られてね。阿久悠さんの言う通り「樹の下『で』」になった。

 この曲は、映画の「慕情」がベースになっているんです。香港を舞台に男女が巡り合い、約束の丘で会うロマンティックな映画でね。ぼくが、ああいうの好きなんですって言ったら、京平さんが「慕情」の主題歌と同じコード進行で曲を書いてくれた。

--それは初耳です。「慕情」の主題歌は、マット・モンローの「Love is a many splendored thing」。「想い出の樹の下で」の歌詞が「慕情」をモチーフにしている話は聞いたことありましたが、メロディーもそうだったんですか。

笹井 メインのコード進行が同じらしいですよ。それで阿久悠さんにも、あの映画の世界で詞を書いてくださいってお願いして、曲ができあがった。

--あらためて「慕情」を聴いて、確認してみます。結局、岩崎宏美を担当したのはデビューからのシングル8枚と、アルバム3枚ですか。3枚目のアルバム『飛行船』は名盤でした。松本隆の作詞も2曲入っていて、とてもいい曲だった。

笹井 松本隆さんにはその後も、ちょくちょく書いてもらいました。桜田淳子でもやったんじゃなかったかな。そうそう、「リップスティック」。あれが作詞・松本隆、作曲・筒美京平です。

●桜田淳子に中島みゆきを歌わせた理由

--桜田淳子さんは73年にデビュー。8枚目の「はじめての出来事」や、11枚目の「十七の夏」が大ヒット。74年から75年がレコードセールス的にはピークです。
 その後、売れ行きがやや落ち込み、77年11月発売の「しあわせ芝居」(作詞作曲・中島みゆき)が久々の大ヒットになった。

 この「しあわせ芝居」から笹井さんの担当ですね。こういう担当交替のとき、前任者と引き継ぎの話し合いはあるんですか。ここだけは守ってくれとか。

笹井 ないない。替わったらそれっきりですよ。それはお互い様です。桜田淳子に関しては、制作会議で上司に「座付き作家みたいな、頼みやすい作家にばかり行くな。もっと他のアイデアを考えろ」って言われてね。
 あの頃、研ナオコが中島みゆきの曲で成功していたから「桜田淳子を中島みゆきでやってみたい」って提案したんです。

--でも、明るいアイドルの桜田淳子とは、だいぶイメージが違う。

笹井 いや、桜田淳子は明るいイメージだったけど、ディスカッションしてみたら、ボソボソしゃべるし、かげりがあって、どっちかと言うと暗い子なのかなっていう印象を持ったんです。すごくまじめで熱心なんだけどね。

 年齢的にも20歳になるかならないかの頃でもう大人の女性だし、中島みゆきの内面的な世界を、朗々とつぶやくような感じで歌わせてみたかった。中島みゆきにもヤマハで会って直接そういう話をして依頼したら、「考えてみます」と言われて、一週間くらいしてから「やります」と返事が来た。

--「しあわせ芝居」の、つぶやくような歌い方もディレクションによるものだったんですね。

笹井 そこから「追いかけてヨコハマ」と「20才になれば」と、シングルを3曲書いてもらったのかな。ただ、3曲続けて中島みゆきにするんじゃなくて、1曲、正反対のリズミックなのを歌わせてみようかって作ったのが「リップスティック」です。これもまあまあ売れました。

--桜田淳子にとって最後のオリコン・ベストテン入りシングルが「リップスティック」でした。78年には全曲、中島みゆき作詞作曲の企画アルバム『20才になれば』も出しています。シングルの3曲と、あとは中島みゆきのカバーを7曲収録した。

笹井 ああ、そんなアルバムも出しましたかね。あんまり覚えていない(笑)。

20才になればアルバム

--話を聞いていて興味をひかれるのは、ディレクターの担当アーチストがどう決まって、どういう理由で替わっていくのか。

笹井 会社の上層部が目先を変えたいってことでしょうね。アーチストの方向性を変えるために、ディレクターを変える。あの頃は3ヶ月に1回、新曲を出していたから、変えないと続かないようなところもあった。

●ピンクレディーは売れないと思った

--そもそも1人のディレクターは、同時に何人くらいのアーチストを担当するんですか。

笹井 2人か3人が多かった。なかには売れていないアーチストも担当しなきゃいけない。ぼくなんか演歌もやらされました。三沢あけみさんとか、日吉ミミさんとか。でも、ぼくに演歌ごころはないからと降ろさせてもらった。失礼な話だけど、演歌の心がないんだから無理ですよ(笑)。
 失敗もあります。ぼくね、ピンク・レディーをやってくれって言われたんですよ。でも、こんなの売れないと断ってしまった。

--そうなんですか! ピンク・レディーは岩崎宏美の1年あとの76年デビューですよね。

笹井 あの2人組は最初「スター誕生!」に出ていた頃は、フォーク・デュオだったんです。今どきフォークなんて売れないだろうと思ったのと、あと、ぼくはリンリン・ランランを担当してたんです。双子のハーフのポップデュオで、デビュー曲の「恋のインディアン人形」(作詞・さいとう大三、作曲・筒美京平)がちょっと売れた。

--なつかしいです、リンリン・ランラン。デビューは74年4月。インディアンみたいな衣装を着て、たどたどしい日本語で歌って踊る双子だった。

リンリンランラン

笹井 ピンク・レディーは、飯田久彦さんがやらせてくださいって言うから、どうぞって。ぼくは「ペッパー警部」ができた後も、なんだ、女の子2人で踊らせるってリンリン・ランランと同じじゃないかと思った。

--「ペッパー警部」は、ビクター社内の95パーセントが売れると思わなかったという証言が、当時の関係者から出ていますね。初回プレスも4千枚か5千枚だった、と。

笹井 同じ頃ではBOWWOW(バウワウ)も記憶に残っています。ぼくは途中で1枚だけ担当しました。

--バウワウは76年にアルバム『吼えろBOWWOW』でデビューしたハードロック・バンド。当初は全曲英語詞で、ギタリストの山本恭司のテクニックが評判だった。

笹井 エアロスミスやキッスの来日公演で前座をやったりしてね。確かにギター弾きとしてはうまいんだけど、歌がハートフルじゃないんですよ。歌を入れるなら、もっと説得力を持たせないとダメだよって、ぼくは阿久悠さんに詞を書いてもらって日本語の歌を入れる方向へ持っていきたかった。
 でも、本人たちは若いし、生意気だからね。事務所も好きなような作り方でやらせていたから、結局、大成しないで解散してしまった。

 その頃からです。音楽の作り方が変わっていく過渡期というのかな。シンガーソングライターの時代が来て、自分たちで演奏できて、自分たちで歌ってという時代になっちゃった。そうなると、ぼくらディレクターの仕事も変わってしまう。
 こんな曲でいきましょうって、作詞家や作曲家と相談して、とことん練りながら曲を作っていたのに、それよりもアーチストの個性が大事で、作詞家や作曲家に頼む時代じゃなくなっていくわけです。

--歌謡ポップス史では、1979年が転換点だったとされます。ピンク・レディーのブームが終わり、阿久悠が半年間の休筆。一方、サザンオールスターズ「いとしのエリー」や、オフコース「さよなら」など、ニューミュージック系アーチストの台頭も79年。

笹井 ぼくはバンド上がりだから、どうしても音楽の好き嫌いが出てしまう。自分の好きじゃない音楽はやりたくないし、アーチスト任せでは面白くない。それでだんだん会社に居づらくなって、40歳の頃に、15年いたビクターを辞めました。

--ビクターを退社後は、映画音楽なども手がけ、92年の大林宣彦監督の映画「青春デンデケデケデケ」では音楽プロデューサーをつとめていますね。
 2002年には「亜麻色の髪の乙女」が島谷ひとみのリバイバルでヒットしたのを契機に、ヴィレッジ・シンガーズ再結成。往年のグループサウンズが集まるイベントなどでライヴ活動をおこなっています。

笹井 「バラ色の雲」「亜麻色の髪の乙女」「虹の中のレモン」の3曲をやることが多いですね。ヴィレッジは全員健在ですけど、ぼくは昨年(2017年)、大病してしまって。
 その時に、岩崎宏美からメールをもらって「男なんだから頑張れ!」みたいなことが書いてありましたよ。岩崎は歳をとるほど円熟味が出てきて、今もいい歌を歌っていますよね。
  
(構成・文 田端到。2018年5月収録。初出「音楽ファン」)

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