好きな人物である加藤清正について、及び少し熊本旅行の話

自分は歴史が好きだ。中でも特に好きなのが戦国史で、一番好きな人物が加藤清正である。以下からは清正公と記す。
何故清正公が好きなのか?
彼は今の熊本の礎を築き上げ生きざまが立派だからだ。一番分かりやすいのが熊本城を築き上げたのが彼だし、熊本名物である馬刺や朝鮮餅を広め、食したのが清正公と言われている。
3年前、自分は兼ねてから行きたかった熊本へ旅行に行った。
ちょうど3年前の2021年は、清正公が亡くなって410年目の年であった。
また、九州新幹線全線開業10年も迎えた年でもあった。
始発の6時の新幹線に乗ること3時間2分、熊本駅に着いた。
熊本に着いたときは、「ようやく熊本に着いた‼️」とアゲアゲだったのは言うまでもない。
それから市電に乗り、清正公の墓である本妙寺にまず向かった。
外は真夏でとても暑かった。至るところに2016年に起きた熊本地震の傷痕も見受けられた。やがていくつもの階段を上り続けると、清正公が眠る浄地廟(じょうちびょう)にたどり着くことが出来た。立派な建物だった。
看板があり、「正面に清正公の木像があり、その真下に清正公が葬られている」とのこと。その清正公の木像は、はっきりとは見ることは出来なかった。が、しかし清正公が安らかに眠っておられるのを思えばどうでもよく思えた。
「清正様。私は貴方の生きざまを尊敬しております。ようやく今日お会い出来て誠に嬉しい限りです。今の熊本をどうご覧になってますか?これからも熊本を見守ってください。」と墓の前で手を合わせて祈った。
清正公が自分の祈りにどう感じたかは知らないが、「大阪から我が熊本によく来てくれたな。嬉しく思うぞ。ゆっくり熊本を楽しむがよいぞ」と言ってくれたんじゃないか?そう信じたい笑。
清正公は残念ながら、朝鮮では滅茶苦茶嫌われている。豊臣秀吉の朝鮮出兵で清正公は目覚ましい戦いっぷりをした。朝鮮軍からは「鬼将軍」と恐れられ、援軍である明(現在の中国)も清正公を恐れていたと伝わる。
清正公は関ヶ原の戦いでは、徳川に着いた。
大の石田三成嫌いだったからである。元々清正公と石田三成は朝鮮出兵の頃から仲が悪かった。
殺したいほど憎かった。実際に三成を殺そうとしたが、徳川家康に止められた。
そんな清正公は関ヶ原の戦い以後は豊臣と徳川の板挟みに悩まされることになる。
清正公は毎年大坂にいる秀吉の遺児である豊臣秀頼の元へ挨拶に行くのが習慣だった。
家康が江戸幕府開いてから8年後の1611年の3月28日。秀頼と家康の対面が京都の二条城で行われた。清正公も会見に参加した。
秀頼は19歳。対して家康は70歳。清正公は50歳を迎えていた。
清正公は対面中、家康が万が一秀頼を暗殺するようなことがあれば短刀で家康を刺す覚悟だったと言われている。実にかっこいい。
だが会見は無事終わったので、短刀で家康を刺す必要もなくなった。
秀頼の母である淀殿は、「清正。秀頼が無事に帰ってこれたのはそなたのおかげじゃ。例を言うぞ」
と労ったことだろう。やがて熊本に帰ることになるが、大坂からの船中において病に倒れてしまった。
さぞかし家臣は慌てたことだろう。5月27日。病んだ清正公は居城である熊本城に帰り着いた。
「あんなに元気な殿が何故病に倒れたのだ?」と家臣は思ったのではないだろうか?
最も二条城会見前から何かしらの病を患っていた説もあるが、具体的な病は明るみになっていない。よく梅毒と言われるが、清正記によると熊本に帰り着いて数日後には舌がもつれて言葉が出なくなったとあるから、脳卒中だった可能性も否定できないだろう。
あるいは清正公を酷く恐れていた家康の毒殺では?というのが度々当時噂されていた。
このように清正公の死は実に謎が多い。タイミングも二条城会見から3か月後の6月24日に亡くなっているし、3年後には大坂の冬の陣が始まる。
よく我々清正公ファンが思うのが、歴史にもしは禁物ながらも「清正公がもし大坂の陣の時生きていたら、どんな行動していただろうか?」
と多くの清正公ファンが気にする。自分もその一人だ。
清正公は豊臣に恩が深くある。徳川にも関ヶ原の戦い後には恩があるし、妻が徳川だ。このように生きていた場合大坂の陣が勃発となった場合どちらの味方に着いただろうか?
あるいは家康は起こさなかった可能性もある。家康は豊臣恩顧の大名をやたら警戒していた。
その筆頭とも取れたのが清正公なのである。
家康はその清正公を恐れ、自身の養女を清正公の妻にしたのである。
なので、清正公が大坂の陣の時生きていたら清正公が豊臣に付くのを見越して大坂の陣は起きなかった可能性が高い。
大坂の陣が勃発した際はあの世で「くそー家康め。豊臣家を滅ぼすなんて許さん。」と地団駄踏んでいたことだろう。
と同時に豊臣家からすれば「清正殿が生きていたら、福島正則殿等も我ら豊臣についていたろうに」と思っていたかもしれない。
このように敵に回せば恐れられ、味方になれば頼もしい清正公である。

熊本城の天守閣
本妙寺の頂上にある清正公の銅像。熊本を見守っている
本妙寺からみた熊本市内
看板によればこの正面に清正公の木像があり、その真下に清正公が眠っておられるとのこと。
残念ながら、はっきりと木像は見れなかった。
清正公が広めたとされる熊本名物馬肉。
熊本城前にあった清正公の像
熊本ラーメン。にんにくのパンチが熊本ラーメンにはしっかり効いており、実に旨かった

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