日記 9/8


今回の日記は、かなり重ための内容になってしまうと思います。自分自身、他人が書いた文章を読んで、感情的に不安定になるということがそれなりにあるため、心当たりのある方はここで読むのをやめていただきたいです。私は他人を不安にさせるために文章を書きたいわけではない。しかしそれでも、敢えて日記として公開しようと思ったのは、これから書くことが、私たちはどうあるべきかという、実存的な問題に触れていると思ったからです。






昨日、自転車でジムに向かう道すがら、目の前で猫が車に轢かれました。その猫は中央分離帯の草むらから突然飛び出してきたので、ほとんど避けられない事故だったと思います。その猫は、轢かれた後もまだ生きていました。すくと立ち上がり、何度か転びながら、何とか車道の端まで歩いて、そこでぐったりと横たわりました。その猫は、轢かれたのに、キョトンとした目をしていました。何が起こったのか、よく分かっていないようでした。私は自転車から降り、どうしよう、と思いました。横たわっている猫を見て、でも直視し続けられなくて、少しだけ歩きました。そして、自転車を止めて、スマートフォンを取り出しました。「轢かれた猫 見つけたら」と検索窓に打ち込み、ヒットした記事に目を通しました。分かったことは二つあります。一つは、動物の亡骸を見つけた場合、道路交通ダイヤルに連絡をする必要があること。もう一つは、もし生きていて、どうしても助けたいと思うならば、発見者自身が自己責任で動物病院に連れて行き、一生面倒を見る覚悟で助けなければいけない、ということです。それを読んだ瞬間に、助けられない、と思いました。同時に、自分にはそもそも、この猫を自力で助けるという発想すら無かったのだと気が付きました。どこかに一本電話を入れさえすれば、どこかの誰かが、この猫を助けてくれるかもしれない。そんな甘い考えしかありませんでした。しかし、自分を顧みるのは家に帰ってからでいい。とりあえず、道路交通ダイヤルに電話をしました。担当者の方に繋がったので、状況を説明しました。猫が車に轢かれた。どうすればいいか分からない。ネットの情報を見て連絡した。その猫は、まだ生きているかもしれない。私の説明を聞いて、担当者の方はこう言った。「死んでないとダメなんですよ」。思わず絶句した。その男性はこう続けた。「まあ、死んだらまた誰かが連絡してくると思うので、とりあえずは、はい」。私は電話を切る他なかった。死んでないとダメなんですよ。まるで、家具とか、洗濯機とかの話をしているみたいだった。無機質で、機械的だった。しかし私に、彼を責める資格があるだろうか。責められない。おそらく、こういう電話がしょっちゅうかかってくるのだろう。自分だったら、とてもじゃないが、耐えられない。あっという間に精神を病んでしまうかもしれない。しかし、そんな仕事も、誰かがやらなくてはいけない。彼は、その仕事を続けていくために、敢えて機械的な対応をするようになったのかもしれない。あるいは、心を正常に保つために、そうせざるを得なかったのかもしれない。非難できるわけがない。

そして私は、もはやどうしようもないのだと思った。その猫を助けることはできない。自転車に乗り、ジムへ向かった。ジムで走っている間も、あの猫のキョトンとした表情が忘れられなかった。あの猫は、死んでしまっただろう。家に帰ってからも、頭から離れなかった。そして、あの時せめて、あの猫の隣にいてやればよかったと思った。助けられないと分かっていたとしても、孤独に死なせないために、寄り添ってやればよかった。もちろんそれは、独りよがりな考えかもしれない。孤独に死ぬことは悲しいという、人間的な発想に基づいた傲慢かもしれない。でも、周りの目線など気にせずに、看取ってやればよかった。なぜ、スマホを取り出したのだろう。いや、スマホを取り出すまではいい。一匹の生命を目の前にして、なぜそこに向き合わなかったのか。代わりに向き合っていたのは、スマホだった。スマホで完結した。自分がどうすべきかを、自らの意志ではなく、スマホが決定づけた。私は、生きていると言えるだろうか。なぜ猫のそばにいてやれなかったんだろう。目を見てあげられなかったのだろう。

おそらく、私は恐ろしかったのだ。死というものが。生命の炎が消えていく過程と、自分の身に何が起こったのか分からず、それでもまだ生きようとしている猫のことが。これまでずっと見ないようにしてきたこと。善行をいくら積み上げようが、人間は救われない。自分が助かるために善いことをする。それがこれまでの自分の人生だった。だが、世界は出鱈目だ。秩序などない。因果関係などない。不条理だ。善いことをしたら自分に返ってくる。そんなわけがない。あの猫は車に轢かれた。運転手に罪はあるだろうか。ある。しかし、それは人類全員の罪である。地球にとって、最大の敵は間違いなく人間だ。去年、私も車の免許を取った。あの猫を轢くのは自分だったかもしれない。みんな車に乗っている。車なしではもはや生きられない。だから、猫を轢き殺しても仕方ない。そんなわけがない。少しずつエスカレートしていく。以前、東京を歩いていて思ったこと。こんな生命体の、こんな文明が、長続きしていいはずがない。何ができるか。何位を取ったか。何か、根本的な思い違いをしていた。大切なのは、あの猫をひとりで死なせないことでしかないのに。

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