もずが枯木で 鳴いている


友人から勧められて「容疑者Xの献身」という映画を観た。たぶん十年ぶりくらいに観たのではないか。すごく良かった。二つほど思ったことがある。一つは、石神の生活と、それに伴う絶望が、以前観た時よりもはるかに生々しく、たしかにこの世に存在するものとして感じられた、ということである。石神はマフラーに顔を埋め、俯きながら通勤路を歩く。石神にとって、日々はもはや決まった型の反復でしかない。また、俯きながら歩くのは、あらゆる目線によって審査されることを拒絶する姿勢に見える。下を向くことで世間的な競争から降りている。そう感じるのは、まさに自分がそのような理由で俯いて歩くようになったからだが、何にせよ、俯くことにはただ単に落ち込んでいるとか以上の意味がある、ということを自分は経験的に知っている。だから、石神の歩く姿を見ているだけで少し悲しくなった。ただ自分のためだけに、自分という存在を超える何かを持たずに生きていくのは、ひどく虚しい。もう一つは、これは作品の感想とかではないのだが、お弁当屋さんに行きたいということである。この映画にはお弁当屋さんが出てくるのだが、それを見て、行きたくなった、ということだ。


というわけで、友人(容疑者Xの献身を勧めてくれた)を誘ってお弁当屋さん(正確には、お弁当も売ってますみたいな精肉店)に行った。生姜焼き肉&メンチカツ(400円)と中ライス(150円)とフルーツサラダ(150円)を購入した。近くの公園に行って食べることにした。ベンチに座り、さあ食べよう、というタイミングで死角から眼鏡をかけたおじいさんが「ご苦労さん」と言いながら現れた。何が?あと今どこから来た?おじいさんは隣のベンチに座った。「わたしはねえ、毎日8000歩も歩いてるの!8000歩!」と言われた。8000歩って、ちょうどピンと来ない数字だなと思ったが、いや、これは死角からやって来られたために悪意的に解釈したくなっているだけかもしれないと反省し、すごいですねと言った。友人が「おいくつなんですか」と聞くと、おじいさんは「今月で80!」と言った。それに対して、友人は「80、ええ、すごい、見えない、お、お若いですね」と言っていた。いやあのさ、あんまりこういうこと指摘したくないけど、正直「おいくつなんですか」って聞いた時点で頭の中に台本みたいなの用意してただろ、それをなぞるように発言してるからそうなるんだよ、と思ったが、やはり悪意的だったかもしれない。しかし、こういったやり取り(「おいくつですか」「80歳!」「えー見えない」のような)に思うのは、双方がテンプレートを喋っているに過ぎないということだ。このような入力があるとこのような出力をする、という関数が両者の中に設けられているだけ。年齢のやり取りが終わると、おじいさんは次から次へと色々な話をした。おじいさんは民謡が趣味ということだった。何曲か聴かせてもらった(というか、おじいさんは我々に「ご苦労さん」と声をかけた時点で歌うつもりだった)。上手だとは思ったが、わたしは別のことを考えていた。「ご苦労さん」と言った時点で、その後すべての展開が実は決まっていた。ラプラスの悪魔である。私たちは決められた運命をなぞっていた。悪魔はこう言った。「次は『百舌鳥(もず)』」。まだ、歌うのか?悪魔の目には、まだ一口も食べられていない、冷え切ったメンチカツが映らないのか。


もずが枯木で 鳴いている

おいらは藁(わら)を たたいてる

綿ひき車は お婆さん

コットン水車も まわってる


おじいさんは、最近の世の中は暗いよ、と言っていた。誰とすれ違っても挨拶はないし、自分が住んでるアパートですら何をしてるか分からないやつばかり。それを聞いて、また少し悲しくなった。俺はおじいさんと違って、昔と今を比較できないけど、それでもたしかにつまらないと思うよ。でも、どうすればいいんだろうね。おじいさんが帰っていく時、後ろ姿を見るのがちょっとだけ辛かった。お弁当は冷めてたけど美味しかった。

あと、同じことしてる人いた。理由を聞いたら「急に思い付いたからやった」って言ってた。めちゃくちゃいい大人だな!

他にも書きたいことあった気がするけど、長くなったので今日はここまで。またねー

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