まぐろを注文するかっこよさ

天丼に乗っている天ぷらには、たいてい米粒がついていると思うんだけど、この、米粒がついているという事実は、天ぷらの「天ぷら」としての品格を著しく損わせているような気がする。

ということを考えながら、そばとミニ天丼のセットを食べていた。最近はもう、天丼はミニがちょうどいい。かつ丼もミニでいい。ラーメンも、種類によっては、ミニでいいかな。

さて、俺という人間の、何よりもどうしようもないところは、こうした脂っこいものに対する、「もういいかな」という態度が、かっこいい、と思っているところである。子どもを育てている同級生もいる中で、こうしたスタンスは端的に言って「ありえない」のだが、まあ、今更どうしようもない。

他にもたとえば、回転寿司でシンプルなまぐろを頼むのはかっこいい。「まぐろステーキ」とか「びん長まぐろマヨ炙り」とか「まぐろたたき盛りシラチャーソースがけ」とかある中で、ただのまぐろを頼むというのは、並大抵のことではない。そういう人を見ると、尊敬する。どれだけの死線を、くぐり抜けてきたんだ、と思う。私にはまだこういう芸当はできない。

こうしたことは、本を読むときにも起こりうる。たとえば以前、社会学系の本を読んでいると、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本についての言及があった。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神。寿司打ならpurotesutantexizumunorinritosihonsyuginoseisin。なんて、かっこいいんだろう。プロテスタンティズムの倫理、だけでもうかっこいいのに、資本主義の精神?しかも書いている人の名前が、マックス・ヴェーバー?

くらくらする。立っていられない。走り出してしまいたい。その上、略したとしても「プロ倫」と来た。圧倒的である。ナンバーワン。お前がナンバーワンだ。なんと魅力的な本なのだろう。

そのようなことを思って、以前「ヴェーバー入門」という本を買ってみたことがある。いざ読んでみると、入門なのに、マジで何を言っているのか分からない。一つも理解できない。まさしく門前払いであった。そうして失意の下にプロ倫という門から離れた私は、その足でそのまま元気寿司へと向かい、一人黙々と「まぐろたたきネギラー油」を注文して口へ運ぶのであった。

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