阪神淡路1

あれから25年:平成の大災害『阪神淡路大震災』を振り返る2

阪神淡路1

『阪神淡路大震災』当日、関西一円に支店のあった、私の会社では社長から直々に被災していない社員に

「不明社員の被災地での捜索」

の命が下されました。

わたしは同じ支社の1期先輩と2人で、西宮営業所の

不明な社員を身元捜索することとなり、住所周辺を探すこととなりました。

が、震災時ですので通常の交通機関は寸断され、(大阪・兵庫のJR、各私鉄はほとんどマヒ状態で目的地までは徒歩。)連絡もままならず(当時はまだ、携帯電話の利用者が少なく、この震災を契機に必要性を感じ、普及率も上昇したとの話もある。)

私たちは阪急電車で途中の駅まではいったものの、以降は線路の変形、線路周辺の建物の倒壊で不通、徒歩で向かうことにした。

国道であろうか?幹線道路と思しき、片側二車線の道路は車は通っていない。

代わりにリュックや多くの荷物を持った、たくさんの人が列をなし

ただひたすら、目的地に向かう、まるで巡礼者。

周辺は倒壊した、建物や電柱、亀裂のはいった道路。。。

今まで見たことない、未知の世界。

まさに「廃墟」という言葉がふさわしい。

「心のそこからから悲しくなってきた。」

2時間ほど歩いただろうか?

やっとのことで目的地周辺に到着。当然のことだが周辺のコンビニやスーパーなどは閉店している異常事態のなかで、のどが渇いても飲料などは入手できない、空腹でも食事も摂れない状態の中、捜索を続けた。

今のようにスマホでナビとはいかない、この時代で、

捜索を担当していた、職員の自宅をやっとのことで見つかった!!

感動だった。

だが、その家を見て、思考回路が停止した。。。

2階建て戸建て住宅のはずが、1階部分が倒壊し、2階部分が降下している。。。。

恐る恐る、住宅を確認すると間違いなく対象の家であった。

住人はおらず、確認する手段はなかった。

近所に人が見かけられたので、確認すると。

「ああ、あの家の人なぁ。住人は見てへんで。2階が1回おちてるし、つぶされて死んだんちゃう?」と悪びれるふりもなく、冷静に返事をされる。

『人間は窮地に追い込まれると、心も荒んでしまうのか?』

また、悲しみがこみあげてきた。

悲惨な災害が人間のこころをも、すさんでしまうのか?

しかたなく、その場を離れ、近くの小学校へと向かった。

小学校の体育館が被災者の緊急避難場所となっていたからだ。

小学校に入るとさらなる、異様な光景に唖然とした。

館内は多数の棺桶が積み上げれとおり、線香がもうもうと焚かれていた。。。。。。

この世の地獄とはこのことか。。。。。

これだけ、多くの人がなくなっているのであれば、私たちの同僚ももう、だめかもしれない?

死亡者の名簿があったので、こちらも恐る恐る、見ると幸いにも名簿に捜索者の名前がなかった。とりあえず、一安心した。

体育館で地元自治会の関係者に話をすると。。。

「近くの総合病院に多数の負傷者が運ばれている。」

早速、病院へ向かうと。。。。✨

いました、入院していました笑い泣き よかった、よかった!!

心の底から、そう思いました。

あばら骨が3本折れて、全治3か月の重傷ながら、意識もしっかりしており、命に別状ないとのことだった笑い泣き

私たちはこれで、一安心しましたが、亡くなられていた方も多く、たとえ助かったとしても事故による障害が残ったりして、不自由な生活を余儀なくされたかたもいた。。

私たちが捜し出した、同僚は予定通り、3カ月で退院して、近畿圏の親戚のお宅に身を寄せたとのことだった。会社は辞められたようだ。

私もそれを聞き、安心したのだが。。。。。。

それから、数カ月して支援の輪も広がりつつあり、被災地でも少しづつ、復興の意識が芽生えてきた。

その社員が「精神的な病がもとで亡くなった。」と、風の噂で聞くに至った。いわゆる、PTSD(心的外傷後ストレス障害)である。

あれから25年。平成の大災害『阪神淡路大震災』は4半世紀の時を

超えて、あらためて災害の悲惨さを思い返す。

日本人が忘れてはならない、大切な教訓である。

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