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11月28日はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの日

おはようございます。本日は令和5年11月28日(火)です。

99年前の1924年11月28日に孫文が神戸で大アジア主義講演を行いました。大アジア主義講演は玄洋社トップの頭山満との会談の翌日に現在は神戸県庁の場所にあった、県立神戸高等女学校の講堂で行われました。話した内容は当時は録音機器が無く、記者のメモから記事が起こされた為、新聞社によって日本を称賛しているとも、日本を皮肉っているとも解釈の違いがある。

「孫中山在日本神戶高等女子学校演講(左方為戴季陶)
(孫文は日本の神戸女子高等学校で演説した(左が戴吉濤))」
戴季陶著『中國獨立運動的基點』廣州民智書局印行

95年前の1928年11月28日に高柳健次郎がブラウン管受像方式テレビの公開実験が行われました。高柳氏は戦前よりテレビ研究の第一人者でしたが戦後にNHKでテレビ研究を再開しようとするが、GHQに目を付けられてテレビ研究を禁止されたうえ公職追放されてしまいます。その後日本ビクターに入社して自身が中心になりながら東芝・シャープ・NHKと共同でテレビ受信機を開発し、日本のテレビの父と呼ばれています。

高柳健次郎(1899-1990)

今日の架空記念日は?

112年前の今日

1811年11月28日ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番『皇帝』が初演でした。ということで、みんながよく知ってるベートーヴェンを見ていきたいと思います。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという人

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)
ドイツの作曲家、ピアニスト、ロマン派音楽の先駆け
『ベートーヴェンの肖像画』(1820)
ヨーゼフ・カール・シュティーラー(1781-1851)作画

幼少期

1770年12月16日頃 神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、音楽家の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと、宮廷料理人の娘、母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子として生まれる。マリアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみで、長男のルートヴィヒ・マリア生誕6日後に死去したため、その3人の中ではベートーヴェンは長男だった。他の二人は、カスパール・アントン・カールニコラウス・ヨハンである。

ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手兼鍵盤楽器奏者として知られ、楽長として宮廷の音楽家たちを率いていたベートーヴェンと同姓同名の祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの援助により生計を立てていた。幼少のベートーヴェンも祖父ルートヴィヒを敬愛しており、同時代人からも尊敬されていた。敬愛していた証拠として、ベートーヴェンは祖父の肖像画を何年間も自身の部屋に飾っている。

1773年12月24日 祖父が亡くなり、遺産を父が相続したが、父ヨハンは宮廷歌手(テノール)をしていたが、ほとんど酒に浪費してしまう。
1774年頃 ベートーヴェンは、父からその才能をあてにされ、虐待に近い音楽のスパルタ教育を受ける。一時は音楽に対して強い嫌悪感を抱くようになる。
1778年 ケルンでの演奏会に出演し、デビューを果たす。

恩師ネーフェ先生

1782年 クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。ネーフェは当時まだ名前が知られていなかったヨハン・セバスティアン・バッハの作品を与え、『平均律クラヴィーア曲集』などを弾かせている。また、同年に作曲した『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』が出版されている。(ベートーヴェン初出版作品)

クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748-1798)
ドイツのオペラ作曲家、オルガニスト
肖像画・作者不明
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)
ドイツのバロック音楽作曲家、オルガニスト
『61歳のバッハ肖像画』(1746年)
エリアス・ゴッドローブ・オスマン(1695-1774)作画

モーツァルトとの出会い

1787年春ウィーンに旅したベートーヴェン16歳は、かねてから憧れを抱いていたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを訪問した。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
オーストリアの音楽家、ピアニスト(21歳頃から)
ウィーン古典派の代表
『モーツァルトの肖像画(想像)』(1819年)
バーバラ・クラフト(1764-1825)

この時代のウィーンは音楽が盛んで、ヨーロッパ中から音楽家が集まり、貴族、外交団、ブルジョアジーなどが音楽家たちを支援していた。カール・チェルニーの伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」と語ったという。また、この際の旅費を負担したのは、ヴァルトシュタイン伯爵であるとフランツ・ヴェーゲラーは述べているが、実際はボンでのベートーヴェンの最大の支援者であるマクシミリアン・フランツであるとされている。

マクシミリアン・フランツ・クサーヴァ・ヨーゼフ・
ヨハン・アントン・デ・パウラ・ヴェンツェル(1756-1801)
ローマ皇帝フランツ1世の五男、ケルン大司教選帝侯
『妹マリー・アントアネット(右)とその夫ルイ16世(中)
を訪ねるマスシミリアン・フランツ(左)』(1776年)
ジョセフ・ハウジンガー作画
ウィーン美術史美術館所蔵

ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った。母は二か月後の7月に肺結核で死去した。その一方で父親のアルコール依存症と鬱病は悪化していった。

1789年 家計を支えられるように父親の年収の半分を直接自分に渡してほしいという旨を、父親が無給になった場合にはどこかの村に追放するという条件付きで、選帝侯(皇帝を選ぶ選挙権を持った諸侯)に嘆願している。しかし、このことを恥じた父ヨハンは自身の給料の半分を年4回の分割で、自らベートーヴェンに渡した。そして、仕事ができなくなった父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、養育と学校教育が必要な二人の弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

一方、この頃からベートーヴェン家は、リース家フォン・ブロイニング家から生活面で助けを得ていた。ブロイニング家には、ヘレーネ・フォン・ブロイニング夫人、娘のエレオノーレ、息子のクリストフ、シュテファン、ローレンツがおり、ルートビィヒは特にシュテファンと交流を結んだ。ベートーヴェンは多くの時間をこの家で過ごし、ベートーヴェンの親友のヴェーゲラーも頻繁にこの家に訪れていた。ボン時代の後援者としては、マクシミリアン・フランツ以外にフェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵が知られている。

ハイドンの弟子

1790年12月1792年7月に当時絶頂期だったフランツ・ヨーゼフ・ハイドンと興行主ヨハン・ペーター・ザーロモンボンに立ち寄っているが、そのどちらかでベートーヴェンハイドンに自身のカンタータ『皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ』WoO.87『皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ』WoO.88のどちらかを見せている。ハイドンベートーヴェンの才能を認め、弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた。

カンタータとは、単声または多声のための器楽伴奏付の声楽作品をいう。元来は動詞「歌う」の分詞形であり、「歌われるもの」を意味する。

Wikipedia
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)
オーストリアの音楽家、古典派を代表する作曲家
現在のドイツ国家を作曲した人(『神よ、皇帝フランツを守り給え』)
トーマス・ハーディ(1757-1804)作画
ヨハン・ペーター・ザーロモン(1745-1815)
ドイツのヴァイオリニスト、作曲家、指揮者、興行主
モーツァルトの『ジュピター』の曲名を名付けた人

1792年11月2日の早朝に出発し、フランクフルトニュルンベルクレーゲンスブルクパッサウリンツ等を経由しながら1週間かけてウィーンに到着した。そして、ベートーヴェンはこれ以降、二度とボンに戻ることはなかった。

・当時、ウィーンではフランス革命の影響を受けて報道の自由が規制され、革命支持者に対する措置が厳しくなっており、そのことは1794年にボンに送った手紙の内容からもうかがえる。
・一方で、ウィーンの貴族のサロンは若い音楽家たちの活躍する場となっており、公開コンサートの数も増えていっていた。
ウィーンに到着した際、ベートーヴェンは貴族たちから演奏の招待を多く受けたが、そのほとんどを無視しており、これらに対し怒りの感情すら覚えている。
・一方で、ベートーヴェンはこの地で多くの後援者を得ることになる。
・後援者の1人として挙げられるカール・リヒノフスキー侯爵家は気前がよく、イタリア弦楽器一式と600フローリンの年金を与えており、ベートーヴェンは彼の所有する家に下宿している。

1792年12月18日には父ヨハンが死去したが、ベートーヴェンは彼の葬儀のためにボンに戻ることはなく、葬儀はヴェーゲラーたちが済ました。

ハイドンに教えを乞うためにウィーンに来たベートーヴェンだったが、ハイドンが1791-92年、1794-95年の2回のイギリスの訪問にて成功を収め多忙を極めた事もあり、ベートーヴェンに作曲を教える時間はほとんどなかった。そこで、1793年からハイドンには内緒でヨハン・シェンクに作曲を師事し、彼の下でフックスの『パルナッソス山への階梯』を基に対位法を学び、対位法課題を添削してもらった。そして、ベートーヴェンは更に1794年から当時高名な理論家であったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの下で対位法を学んでいる。これらの対位法の成果は、この頃の作品と考えられているフーガ ハ長調 WoO215や、弦楽四重奏曲のための初期の断片的なフーガに端的に表れている。

国民的音楽家

ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々にに名声をあげていき、ウィーンに来てから4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。これは1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評の項目において、ベートーヴェンをハイドンの次の位置に配置して評価していることからも分かる。ここではベートーヴェンを次のように評価している。

彼は演奏の稀にみる速さによって広く称賛されており、最も手強い困難な箇所をいとも簡単に習得してしまうことで驚きを与えている。すでに音楽の内なる聖域に入ってしまったようで、正確さ、感性、趣味において傑出している。~中略~ このような非常に偉大な天才が、その実をこれほど優れた大家たちの指導下に置いたとあれば、そもそも期待できないことなどあろうか!彼は既に数曲の美しいソナタを作曲している。その中で最も新しいものは、特に傑出したものと評価されている。

『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』

1796年初頭 ベートーヴェンプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを旅行し、六か月間に及ぶ演奏会を行った。

1795年頃 20歳後半頃より持病の難聴が徐々に悪化。28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えた。しかし、彼自身の音楽への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年 交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

1812年頃 全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞した。
しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタ弦楽四重奏曲等の作品群は彼の辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。

最期の時間

1826年12月 肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。
1827年3月23日 死期を悟って遺書をしたためた。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま
同年3月26日 病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま肝硬変のため波乱に満ちた生涯を閉じた。

享年58(満56歳没)

その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀にはフランツ・シューベルトヨーゼフ・マイゼダーも参列している。

フランツ・シューベルト(1797-1828)
オーストリアの作曲家、ヴァイオリニスト
ロマン派の先駆け、高速作曲の天才

シューベルトベートーヴェンの葬儀参列の後、友人と酒場に行き「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と掛け声をした翌年に亡くなるというフラグを立てた逸話がある。

ヨーゼフ・マイゼダー(1789ー1863)
オーストリアの作曲家、ヴァイオリニスト


今日のさわだくん

111日チャレンジ51日目

銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)/ゴダイゴ

1979年7月1日にリリースのゴダイゴ11枚目のシングル曲。英語版は2018年9月19日にリリースされている。フジテレビ系列テレビアニメ『銀河鉄道999』の主題歌。