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10月15日は尚円王の日(架空記念日ブログ)

おはようございます。今日は令和5年10月15日(日)です。今日もよろしくお願いします。今日は尚円王を紹介したいと思います。なぜ尚円王にたどり着いたかですが、10(とう)=島=しま、15(いちご)=苺ということで島いちごの生産地伊是名村に辿り着いたのですが、ここが琉球国王の尚円王の生誕の地ってことで辿り着きました。10を島と読むまで(読んじゃダメだけど)何も出てこなかったので一安心です。

今日の架空記念日は?

生まれは農村

尚円王は1415年に伊平屋伊是名諸島の伊是名島の諸見村で父尚稷(しょうしょく)、母瑞雲の間に長男として生まれました。幼名は思徳金(うみとくがね)名前は金丸。金丸は農業を手伝いながら生活していましたが、20歳の1434年両親が亡くなりました。弟はその時5歳。その後も農業を続けていましたが、気候は干ばつなのに、金丸の田だけ水が乾かないのを盗水だと疑われ24歳の時に妻と弟を連れて、沖縄本島の国頭村に逃亡しますがそこでも余所者として受けいられず正統6年(1441年)27歳の時に首里へ向かいます。

まるで太閤のような出世

首里につくと越来王子(後の尚泰久王)に気に入られて家臣となり王府官僚として仕官する事になります。当初は下役から始まった金丸でしたが、たちまち頭角を表し、38歳の時に景泰3年(1452年)に高官となる黄冠まで昇進します。余談ですが沖縄の冠(はちまち)制度は1476年に緑冠から始まり、青→赤→黄→紫→・・・と昇進するごとに色が変わるのですが、まだ冠制度が無かった1452年では黄冠は最高位だったと言われています。

2代目とうまくいかないのはどこも同じ

その後、尚泰久王が第6代琉球王に即位したのち、景泰5年(1454年)に西原間切の内間領主に任命される。仕官から14年目のことでした。豊臣秀吉が長浜城主になったのが1573年、仕官から19年目でしたのでそれよりもスピード出世という事になります。そして天順3年(1453年)御物城御鎖側官(貿易長官)に就任、この役は王の取次役で王に上申するにはまず力丸に申し立てなければならない、実質的なナンバー2です。尚泰久王からの絶大な信頼を得た力丸でしたが翌年、尚泰久王は薨去(こうきょ)。尚泰久王の庶子の尚徳王が第7代琉球王に即位する。この力丸と尚徳王とはうまくいかなかった。

問題児「尚徳王」

嫡子(正室の子)の長兄を差し置いて王となった、庶子(妾腹の子)の尚徳王、とにかく領地を増やしたいと血気盛んに自ら前線に出るなど、無謀な政策を展開し、重臣の諌めも聞かずに領地が広がる反面、家臣の心は離れていきました。力丸も何度も諌めましたが聞いてもらえず、成化4年(1468年)ついに隠居します。尚徳王は悪者扱いされてますが功績も結構あるので、あくまでも尚円王から見た尚徳王ってことなんですよね。

第8代琉球王尚円王

クーデターと国笠ノロ伝説

成化5年に尚徳王が薨去し、その子が継ぐ会議の中、王の資質がないと重臣一同が反対をし力丸が時期王になることが決定し、隠遁先から力丸は迎え入れられ尚円と名乗った。これが尚円王側から記実だそうですが、久高島の国笠ノロ伝説では、戦勝のみぎりに久高島に行った尚徳王は外間村国笠ノロに就任した大里家の娘に心を奪われ帰還を忘れ、久高島に退座したその間にクーデターが起きたという話が残っています。

まとめ

孫権が劉備に自分の妹(孫尚香)を嫁がせて骨抜きにしようとした話と似てますよね。大里家の娘を側室として連れて帰ることも出来たはずなのに滞在させたってのがクーデターの一部のような気もしますよね。ちなみに尚円王を推すことで正統な血筋が立たれる事になるのですがそこがボヤッとしてるのが不思議なところでした。

孫尚香

今日のさわだくん

111日チャレンジ7曲目

MY FRIEND/ZARD

画像:タワーレコード

「MY FRIEND」はZARDの17枚目のシングル曲、テレビアニメ「SLAM DUNK」の最終クールのエンディングテーマでZARDhaこの曲で3枚目のミリオンヒットを達成した。

さわだくんありがとう、アニメ率高めやね

まとめ

はい、昨日は日本酒の会でしこたま飲んで、二日酔いの今日はとても難航しました。10月は本当にやばい、「いれ」、「いま」、「てん」から言葉作るの頭おかしくなる。”11”を「いい」って読める11月が待ち遠しい。さあこれから明日の”16”と戦うわけですよ、これも何んも思いつかない。それではまた明日。