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熱い思いを忘れない

3時過ぎに目覚める。外は雨模様だ。今日は、日本国中どこもかしこも、昨日より寒いとか。東京の最高気温は21度で大雨。半袖では少し寒い。
ここ1週間は雨の日が多くなる予報だ。明日からは6月だ。梅雨の走りか。

3月、4月、5月と毎月、"ふるさと能登"に出かけている。6月も最終週の24日〜26日、2泊3日で北陸に出張する予定だ。
6月24日は富山県朝日町と金沢市を、25日〜26日は中能登町を訪問する。

中能登町では、25日に古民家「えにし屋」に宿泊の予定して、夕食は近くの「焼肉一平」にしようと思う。

この店は、私の従兄の次男(神保泰平君)が経営している。七尾線の良川駅を下車して徒歩7分。宿泊する「えにし屋」からも近い。

私は中能登町の旧鳥屋町に住む伯父伯母(泰平君の祖父母)に大変お世話になった。
大学受験直前の2ヶ月は追い込みで気持ちは張り詰めていたが、そんな時だからこそ、心が落ち着ける伯母さんのところにお世話になりたいとわがままを言って、金沢の下宿を引き払い、良川の神保の家の離れで受験勉強に勤しんだ。

母も、父が亡くなった後、伯父のお世話をすると言う名目で、良川の神保の家でお世話になっていた。
そんなことで、なんだかんだと親子共々、良川の神保でお世話になっていたのだ。そんなことで、良川の神保家は、私の実家の能登部に勝るとも劣らない、私が心安まる実家だった。

私が受験勉強でお世話になっていた時(18歳)から、早いもので半世紀以上(52年)が経った。
もう良川には行くことはないだろう、伯父伯母も二人ともいなくなった今、良川にはご縁がないだろうと思っていた。
それを能登半島地震が「ふるさとに帰れ。お世話になった中能登に帰って中能登のために尽くせ。能登のために尽くせ」と、私の背中を押して中能登町に行くように仕向けた。中能登町が私を引き寄せたのだ。

泰平君と会ったのは、私が30代前半の時が最後だったろうか。それから40年近くが経っている。
私が電話で、「私を覚えているか。毎月中能登町に行っている。来月、中能登町に行った時、"焼肉一平"に行くつもりだ」と話したところ、「勿論、覚えている。能登部(私の実家)の祭りの時だったか、博ちゃん(私のこと)に会った。写真も撮ったよ。その写真も持っている。お待ちしています」と。私は、祭りのことは全く覚えていない。

それから40年近く経っているが、泰平君とは、いつも会っているようにザックバランに話ができる。これは血のせいか。いや、それだけではない。彼の人柄のなせる技だ。人間性の問題だろう。
泰平君は情がある。人に好感を持たれる得な(徳な)性格だ。だから、家庭も円満なんだ。

中能登町の皆さんの話では「焼肉一平」は大変繁盛しているお店だとか。美味しい焼肉だと評判らしい。
さもありなん。泰平君は実直で、心優しい経営者に成長している。

泰平君との電話のあと、神保の奈良と大阪にいる従姉妹の二人と電話で話をした。長電話になった。
私は一人っ子だから、二人は私の実のお姉さんのような心優しい姉妹だった。良川の話で花が咲く。懐かしい。

「博ちゃん、能登のために尽くすなんて偉いね。良川とは縁があるね。せいぜい、中能登町のために頑張ってね。そして、体に気をつけてね」と。
そんなことを言われると、いい加減なことはできない。私が持てる力を目一杯発揮して、中能登町を応援したいと思う。

人生最後(最後と言っても、あと29年)の仕事として、手を抜くことなく誠心誠意、中能登町のため、能登半島のために全力を尽くそうと思う。
なぜなら、能登は"私が存在している原点"であり、"能登の復興応援が私の第二の生のミッション"なのだから。

大いなる
道といふもの
世にあるを
思ふこころは
いまだも消えず

湖人


不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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