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東京六大学野球・応援団OBの[古稀を祝う会]に出席する

9月に東京六大学野球秋季リーグ戦が開幕し、今はその真っ最中だ。
そんな中、昨日(5.10.1)、日本青年館にて[東六1975・古稀を祝う会]が催され、私も出席した。

この会は、東京六大学の野球部で1975年(昭和50年)に4年生であった往年の選手たちの有志が、自らの古稀を祝う集いだ。それに東京六大学応援団の同期の有志が加わった。
野球部OB35名、応援団OB12名の総勢47名。

この同期(1975年組)は私の1年後輩の面々だ。私だけが1974年(昭和49年)組だ。

私は昭和49年の春秋リーグで東大の応援団長(主将)をしていたので、彼らの1年先輩なのだが、1年後輩の冨樫弘史さんから、「博重さんはご自宅も事務所も南青山で、神宮は庭のようなところだから、1975年組の会ですが参加されませんか」とお誘いいただいた。
「お誘いいただくとはありがたいことだ。私もまだ満70歳であり、該当者の一人だ」と思って、喜んで参加することにしたのだ。

この会の言い出しっぺは、丸山清光さんだ。それに渋沢稔さんが賛同して、この会が実現したのだとか。

丸山さんは明治のエースピッチャー。大洋の秋山以来の明治の下手投げの名投手だ。
また、渋沢さんは東大の主力バッター。今までの東大のキャッチャーのなかでピカイチの名キャッチャー。
このお二人は、同じ長野県の上田高校でバッテリーを組んでいた。

そして、東大は六大学の中では特に明治と親しい。

私が現役の頃、明治に名物監督の島岡吉郎さんがいらした。彼は、その昔は、"明治の応援団長"だった。
かつて、島岡さんのドラマがテレビで放映された。島岡さんを若山富三郎が演じていた。

野球部の監督が元応援団長とは。
「島岡さん、監督がよく務まったものだ」と思うのが偽らざるところだが、何をか言わん、明治は精神野球で売っていた。
島岡さんの「何とかせい」の一言で、選手たちは何とかしたのだ。

ただ、島岡さんは東大を"帝大"と言っていたように、東大を他大学とは違う別格に見ていたらしい。
明治の選手たちは、島岡監督の、「帝大には、絶対負けるな!!!」がプレッシャーで、私が現役の時は、東大は明治を鴨にしていた感がある。

昭和48年の春のリーグ戦では、東大は前年秋の覇者である明治に2連勝して"東大旋風"を巻き起こした。その後、確かTBSだと思ったが、押坂忍アナウンサーが司会をしていた[ベルトクイズQ&Q]という昼のクイズ番組で、東大vs明治の応援団対決が仕組まれた。この時、東大は明治に完膚なきまでに叩きのめされてしまったのだ。
翌朝のあるスポーツ紙朝刊の一面に、「野球は東大、頭は明治」と大々的に書かれたのは、スポーツ紙であり、何も話題がない日だったこともあるのだろうが、私も「あっと驚く為五郎」だった。
これが東大の運動会本部では結構話題になり、ちょっと応援部員は肩身の狭い思いをしたことを忘れない。

その夏の明治応援団の合宿は、このクイズ番組で獲得した100万円で豪華な合宿になったそうな。
参った、参った。

私は六大学応援団なら六大学の仲間は和気藹々で仲がいいことは分かるが、六大学野球の同期が半世紀経って集まって、往時の話で盛り上がるとは思いもしなかった。
東京六大学は応援団も野球部も、やはりハートは一流なのだ。

また、出席者全員が一言話したのだが、その内の何人かの人から、「法政の江川卓さん」の話が出て盛り上がった。

江川さんは、私が四年生の時、法政に入ってきた。
昭和49年は、東大以外の5大学に甲子園で活躍した、いわゆる甲子園組が雪崩を打って入ってきた年だった。

「週刊ベースボール」は、東京六大学野球特集を組んだ。また、テレビ神奈川は、全ての東京六大学野球の試合を放映した。
応援団もそのご相伴に預かり、スタンドでインタビューを受けたところも放映された。
私も"名物東大応援団長"として、週刊ベースボールやテレビ神奈川で取り上げられた。

「江川から1本ヒットを打ったことが忘れられない」「江川のストレートは速いだけはなく、球がグルグル回って手元に食い込んできて、他の投手とは比較にならない"別格の選手"だった」と。
江川は、そんな大学野球のなかでも超一流の野球選手だったのだ。
その江川に最初に土をつけたのが東大なのだ(昭和49年秋)。その時、私は、飛び上がるほどに嬉しかった。

そんな話題にことかかない、和気藹々の会だった。そして、私は、その後で神宮近くのレストランであった2次会にも参加した。

「今度は喜寿(77歳)の祝いで会おう」と皆んなと別れたが、あと7年後、どれだけ皆んなが元気で参加するのだろうか。

70歳にもなると、自営業や自由業の人は働いているが、サラリーマンだった人はほとんど無職で、皆んな悠々自適の生活を送っている。それは、どんなに偉くなった人であっても同じだ。

私は、フーテンの寅さんのようなものだが、生涯現役で仕事があることを喜んでいる。
44歳6ヶ月で安田信託銀行を辞めたことは、結果オーライだったのだ。

生涯に亙り、人に喜ばれる仕事をすることは、この上ない幸せなことだ。そして、仕事はまさに"認知症防止の特効薬"なのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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