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雪の夜の品定め

東京では、昨日は午後から積もりそうな雪が降り出した。午後の外出時には雨だったが、訪問先から帰る時はチラチラ雪が舞っていた。夕方には、事務所から徒歩2分の自宅に帰るとき、雪は道路に積もって、シャーベット状になっていた。
これでは、今朝は冷えて道路は凍っているかもと心配していたが、さにあらず。凍るほどの気温にはならなかったらしく、雨が降ったようだ。午前5時過ぎに家を出たときには、昨夕同様のシャーベット状の道路だった。それでも歩幅を狭くして、恐る恐る事務所まで出かけた。

昨晩遅く、東京美装興業の中西知子さんからメールが入っていた。
今朝9時半に西新宿の同社を訪問することになっていたので、彼女から「明日(2/6)9:30のご来社について、警報級の大雪につき、明日路面凍結などの影響もあるかと思います。ご無理なさらず、もし状況がかなわない場合は遠慮無くご連絡下さい」との内容だ。
さすが[重陽の会]のメンバーだと、その気配りに心が癒された。ほんのちょっとのことでも人は感動する。心が温かくなる。

今朝の道路の状況では私は伺うことができるだろう。彼女はご自宅の所沢から西新宿まで出社できるだろうか。
そんなお互いの気配りが人間関係を豊かに、スムーズにする。

昨夜、帰宅してゆったりと風呂に浸かった。いつもは"カラスの行水"なのだが、昨夜の風呂は気温が低かったこともあり、私にしては長い30分の長風呂だった。

その理由は、風呂に浸かって、源氏物語の"雨夜の品定め"ならぬ"雪の夜の品定め"をしていたからだ。
何も女性を品定めしていたわけではない。柳生家の家訓でいう、小才と中才と大才のことを考えていたのだ。

[柳生家の家訓]
小才は、縁に出会って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を生かさず
大才は、それ振り合う縁をも生かす

私は毎日、いろいろな人と会ったり、メールやLINEをしたり、電話をしたりして、人とコミュニケーションを図っている。これが私の生業のベースだからだ。

その人たちの中で、大才と思われる人はどれだけいるのだろうと考えてみた。そして、中才は?、小才は?、と思い巡らしていた。

私がそのどれに属するか、それは私ではなく人さまが判断されることだが、「私は大才になりたいと思う。いつも私は、大才になろうとして努力精進して生きている」ことは事実である。

そんな私が品定めをした。

私が接する人で"大才"と思われる人は、1割はいらっしゃるだろうか。
そんな大才とは、政治家や高級官僚や会社社長や経営幹部等、いわゆる"偉いさん"を指しているのではない。人間的に尊敬に値する人、心が温かい、Win Winの関係を構築しようと思う人、人とのご縁を大切にする、したいと思っている人のことだ。そんな大才になろうと思って日々生活をしている人も大才の候補者と言えるだろう。
それは老若男女を問わない。20代の若者でも大才の人はいる。50〜60代の社長さんでも中才どころか小才と思われる人もいる。

では中才は?
8割の人は中才ではないのか。ほとんどの人は中才だろう。
縁に気づいていても生かすことをしない。生かし方を分からない。それをそんなものだと思う。人との出会いを磨き砂と思わないのだ。磨き方が分からないのかもしれない。私は、圧倒的多数の人は中才だと思う。

小才は、縁に出会っても縁と思わない人だから、いわゆる"惚け茄子(ボケナス)"だ。これも1割くらいはいるだろう。

そんな比率だと思えば、その人たちの反応・対応にいちいち腹を立てたり、イライラしても、"骨折り損のくたびれ儲け"ということだろう。

「世の中そんなものだ」とか、「まぁ、いっか」とか思って、そう思おうとして、大才に巡り会ったなら、「私は幸せ者だ。こんな人と出会うことができて。是非とも、仲間になりたいな」と思うことだ。そう思うようにするとストレスは溜まらない。生きていてありがたいと思う。ピリピリしなくなる。
ちょっと上から目線と言われそうだが、穏やかな気持ちになることは確かだ。この"穏やかな気持ち"になることが大切だ。そして、大才に出会って、ありがたいと"感謝"をすることなのだ。

少なくとも、[重陽の会]のメンバーは大才の人ばかりであってほしい。たとえ、今は大才ではなくとも、大才の門の入り口にたどり着いた人も大才の候補者だ。それは大才になりたいと思って、その入り口にまでたどり着いたのだから。

[重陽の会]はそんな大才になる試金石でありたいと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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