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[傅役(もりやく)]の第二生を生きる

相田みつをさんは、「トマトとメロン」の詩で語っている。

【トマトとメロン】                  

トマトにねえ
いくら肥料やったってさ
メロンにはならねんだなあ

トマトとね
メロンをね
いくら比べたって
しょうがねんだなあ

トマトより
メロンのほうが高級だ
なんて思っているのは
人間だけだね
それもね
欲のふかい人間だけだな

トマトもね メロンもね
当事者同士は
比べも競争もしてねんだな
トマトはトマトのいのちを
精一杯生きているだけ
メロンはメロンのいのちを
いのちいっぱいに
生きているだけ

トマトもメロンも
それぞれに 自分のいのちを
百点満点に生きているんだよ

トマトとメロンをね
二つ並べて比べたり
競争させたりしているのは
そろばん片手の人間だけ
当事者にしてみれば
いいめいわくのこと

「メロンになれ メロンになれ
カッコいいメロンになれ!!
金のいっぱいできるメロンになれ!!」
と 尻ひっぱたかれて
ノイローゼになったり
やけのやんぱちで
暴れたりしているトマトが
いっぱいいるんじゃないかなあ

相田さんは、素直な心で、汝自身をよく知り、その得手を目一杯生かすことで、人のお役に立つことこそが、「人間の正しい生き方」であると仰っているのだ。

また、福沢諭吉翁は、下記のように、"実業社会に求められる大人(たいじん)の在り方"を語っている。
これは稲盛和夫さんも、[人生の成功方程式]として、[人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力]と仰っていることと通じるものだ。

思想の深遠なるは哲学者のごとく、
心術の高尚正直なるは元禄武士のごとくにして、
これに加うるに小俗吏の才をもってし、
さらにこれに加うるに土百姓の身体をもってして、
初めて実業社会の大人たるべし。

実業の社会で、立派な人物足りうるための必要条件を福沢諭吉はこのように述べているのだ。

すなわち、
①哲学者のような深い思考、および武士のような清廉な心=[考え方]
②小役人が持ち合わせるぐらいの才知=[能力]
③そして、お百姓のような頑健な体=[熱意]
と言うことだろう。
この3つがそろって初めて、社会に役立つ「大人」たることができると仰っている。

相田みつをさんと福沢諭吉翁、稲盛和夫さんのお言葉を自分ごととして考えてみると、私の第二生の相応しい生き方は、
「脇役人生を生きる。その脇役は、傅役のウェイトを高めた脇役」
ではないだろうかと思うのだ。

[自分の生き方]
自分に与えられた得手をフルに生かすこと。それがトマトであったら、トマトであることを素直に認めて、トマトであることを誇りに思って、メロンになろうとして意味のない無駄な努力をするのではなく、トマトを極めることを目指して、トマトらしく生きること。
その生き方が脇役の中の傅役であったと思うに至ったら、その傅役道を極めようと生きることだ。

[具体的ありよう]
それは主役を「実業社会の大人」に育て上げることだ。
そのために私ができることは、私の得手をフルに生かして主役の足らずを援けることであり、そのサポートとその結果を通して、「『人間としての生き方・考え方』がその人の人生を決めること、それは、「真っ直ぐのブレない人生を生きることが『人生成功の正道』である」ことを伝えていくことだろう。

人を大切にすること、
人の気持ちに思いを致し、恕(思い遣り)の心を持って人に接すること、
それを言動で示すこと、
世の中で起こることは全て因果応報・善因善果・悪因悪果であることを肝に銘じ、善行・利他行を積むこと、
真っ直ぐに生きること、
全てを真正面から受け止め、人に誠心誠意を尽くして生きることだ。

その生き方・考え方は、その人が持っている熱意や能力よりも一段上に位置するものである。

「才子は才に溺れる」とも言われる。
中国の明代の哲学者・思想家である呂新吾(りょしんご)は、「呻吟語(しんぎんご)」で述べている。

深沈厚重なるは、これ第一等の資質
磊落豪雄なるは、これ第二等の資質
聰明才弁なるは、これ第三等の資質

私の役割は、"私が推すリーダーたちを、リーダーとして第一等の資質である[深沈厚重なる人物]に教育・育成すること"なのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)


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