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古稀を過ぎた私の役割

たくさんの人たちからいろいろなお誘いが掛かる。私は、よっぽどのことがなければ、都合をつけて出掛けることにしている。

これも、"柳生家の家訓"の実践だ。

小才は、縁に出会って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を生かさず
大才は、袖振り合う縁をも生かす

私は、大才の人はごく稀にしかいないと感じている。
折角のご縁に気づかない小才の人や、ご縁に気づいても生かすことができない中才の人が如何に多いことか。
皆んな目先のことばかりを考えて(自分だけの狭い視野から見て)、無駄だと思ったことは極力実行しないのだ。
私は、"何と勿体ないことか"と思う。
意味がないと思うのは、その人がそう思うだけのことで、長い目で見たら、それが将来、大きく生きることはほんとに間々あることなのだ。
71年間生きてみて、私はそのことを強く実感している。

[無用の用]という諺がある。

「無用の用(むようのよう)」とは、一見意味がないように感じるものが、実は重要な役割を担っているという意味を持つ言葉。

これからは、「自らで考える」という意味で、"教養""リベラルアーツ"の重要性が指摘されている。

そんなことで、私はできるだけいろいろな人たちと接触して、いろいろな刺激を受けることで、豊かな人生を送りたいと思っている。

昨日は、いろいろな人たちとの触れ合いがあった。久しぶりに、初めてお会いする人たちに、たくさんお会いした。

[犬も歩けば棒に当たる]

私は一匹パンダだから、さしづめ、「パンダも歩けば棒に当たる」だ。
私は"人寄せパンダ"のようなところがあるから、当然、その棒は多種多彩になっていく。

「犬も歩けば棒に当たる」という言葉には、2つの意味があるそうだ。「棒」を災難と考えるならば、「犬が散歩したらひどい目に遭う」ことになる。しかし、「棒」を幸運と考えるならば、「犬が散歩をしたら思わぬ幸運に出会う」ことになる。

私は、[災い転じて福となす]の諺の通り、たとえ、災難の棒であってもそれは幸運の前触れと思って、その災難から何かを掴む(学ぶ)ことで、自ずと幸運が向こうからやってくるのだと思っている。
逆に、最初から幸運だと、何かとんでもないことが起こるのではないかと寧ろ心配になる。

松下幸之助さんは「私は運がいい。死んでもおかしくないところを、今生かされて生きている」と、たとえ災難に遭っても、それを幸運と思う"絶対積極"の精神をお持ちだった。その心が、あの"大松下"をつくったのだと思う。

昨日は、(ちょっと悪い)棒にぶつかった。若い時だったら、カーッとなって落ち込んでいるか、何くそと突っ張っているかだったと思うが、71歳にもなれば、「これも年の功だから、この災難が私に来たのだ。天は、『小林だからそれは解決できる』と思って私に振ってきたのだ」と穏やかな心で受け取ることができるようになったと思う。
私が解決できないような災難は、決して私には降り掛かってこない。自分自身に対する自信だ。自尊心というものだろう。そんな矜持を持つようになった。

そのためのリベラルアーツだ。教養だ。人間の器だ。
矛盾を矛盾と思わず、両極端を自分自身の中に併せ持つ"懐の深さ"を持つことなのだ。

稲盛和夫さんは「人の心」についてお話しされている。

私は、"人の心"というものをよりどころとしてこの会社を経営していこうと決心しました。
それは、"人の心"ほどうつろいやすく頼りにならないものもないかわりに、ひとたび固い信頼で結ばれれば、これほど強く頼りになるものもないと思ったからです。

同じ"人の心"なのに、その心がうつろいやすく頼りにならないものだったり、真逆に、これほど頼りになるものはなかったりする。

何事も、私たち人間の"心の持ちよう"なのだ。ものの見方、考え方によって、それが善にも悪にも変わっていく。

ちょっとの言葉の一つ二つで、人を恨んだり、逆に感謝したりするものだ。言葉には気をつけよう。

お互いが幸せになるために人は触れ合うのだと、その基本をずらさなければ、物事は思いの外、順調に展開していくものではないか。
その蝶番が、古稀を過ぎた私の役どころだろう。

歳を重ねるということは、人が何で腹を立てているのか、何をして欲しいのか等、相手の気持ちに思いを致し、お互いが Win Winの関係になるように間を取り持つことができることなのだ。

昔は、"若気の至り"で突っ張って生きていたこともあったが、それは過去のことだ。

歳相応に"できた人間"、"器量のある人間"になることだ。
私もそんな歳になった。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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