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絶えず「成功への情熱」を持って生きる

アンナの8月の東京出張は、台風のため、13日(日)から上京し、14日(月)〜16日(水)の企業訪問と打ち合わせを無事終えることができた。
彼女は、私と握手をして別れたあと、渋谷で打ち合わせを兼ねた夜の会食があるのだと。
台風7号の影響があり、16日に東海道新幹線が動くかどうか心配だったが、14時以降は順次運転を開始したようで、何とか当日中には京都に辿り着いたことだろう。

彼女は、早期に、Floraを次のステージの軌道に乗せるためにも、9月以降は月の半分くらいは東京に来るようにすると。
関西以外は、首都圏のほか、福岡も金沢もあるから、もっと京都を離れることが多くなるだろう。
私も忙しくなる。幸せな第二を送るためにも、不退転の決意を持って彼女を応援して生きよう生きていこうと改めて心に誓う。

アンナはまだ26歳と若いが、健康あってのビジネスであるから、自分の若さを決して過信せず、一層の健康に留意してほしいと思う。

ところで、私がアンナを応援する思い入れは半端ではない。それは、自他共に認めるところだ。私は、アンナの応援を、「私の第二生の最大のミッション」と思っているからだ。

「どうして、そんなに入れ込むのか」と人は思うだろう。

そのわけは、私が東大を卒業して安田信託銀行に入社を決めた理由と大きな関係がある。

私は幼い頃から、大学を卒業したら官僚になろうと思っていた。そして、その先は政治家を目指していた。
自分のキャラクターも能力も何も考えることなく、当時の「東大一直線→官僚→政治家」と、まさに、"仰げば尊し"の歌ではないが、「身を立て名を挙げ、やよ励めよ」の世界だったのだ。

しかし、大学での不勉強(応援漬けで勉強が疎かになったというのは言い訳にしか過ぎない。「日本の大学生は大学を遊園地と思っている」と当時は言われたが、ある意味では、典型的なそんな大学生であったことは自覚している)が祟って、上級公務員試験は2次でドロップしてしまった(結果オーライだったが)。

大学では応援部という「運動会」(一般には、「体育会」と言われるが、東大では、「体育会」のことを「運動会」と言っている)に所属していたし、「応援部主将」(東大は応援団ではなく応援部なので、トップは団長ではなく主将と言われる)だったので、応援部以外の運動会OBからも就職のお誘いが頻繁にあった。
そのようなことで、三和銀行から内々定をもらっていたものの銀行には絶対行きたくなかったので、最終は「ありがたいことだが、官僚一本に決めました」と断った。新日鐵にも同様だ。
住友生命は応援部の先輩に勧められたが、就活以前の大学3年の時に断った。
しかし、今は大学4年の9月だ。ほとんどの会社は採用活動を終えていた。
「さぁ、どうしようか」と文京区西片の下宿でふて寝していた時だ。
東大応援部でなんやかやと一番お世話になっていた井口一弘さん(8年先輩、元安田信託銀行専務、前スターツグループ会長補佐)から、私の下宿にお電話があり、「一度、安田信託銀行に来てみないか」と。
私は、「銀行は入りたくないんです」と答えたが、「なんだかんだ四の五の言わずに、飲みに来い」と言われ、呉服橋の安田信託銀行本店まで出かけた。そして、人事部を紹介された。
人事部の橋本世紀男さんは、「小林君、安田は銀行じゃないよ。信託だ。その証拠に、銀行はトップを頭取と言うが、安田は社長と言う」と分かったような分からないことを仰る。三井銀行のトップは社長なのに。

安田信託は、ちょっと銀行らしくない信託銀行だと思った。だから、「安田は銀行じゃない。信託だ」と訳の分からない味な人が採用担当をしている。
私のような人間でも何とか務まるだろうと直感した。一杯飲んでいた勢いもある。「銀行でない安田信託に入ります。よろしくお願いします」と言うことになって、47人の同期の最後の48番目の内定者になった。
同期からは、「小林は四十七士(赤穂浪士)+一匹だ」と、真っ先に名前を覚えてもらった。

それからだ。「なぜ安田信託に決めたのか」、自分なりに、真面目な理屈をつけなければならないと思った。

私に経営の才はない。しかし、人として真っ直ぐ生きようとする思いは人語に落ちるものではない。

お金を扱う銀行や生命保険や証券は全く性に合わないと思う。
いゃ、安田信託は違う。
銀行が扱う「お金」は人間で言えば「血液」だ。志高いベンチャービジネスの経営者は、必ずお金で困っているだろう。私が安田に入って、志高い経営者の応援をしよう。

私は第二の松下幸之助さん、本田宗一郎さんのような志高い経営者のお手伝い(応援)をする銀行家(銀行員ではない、勿論、決して銀行屋と揶揄されるような恥ずかしい人間にはならない。「志高い銀行家」)を目指そうと思った。

20代後半から7年3カ月、人事部で採用と企画という「ひとごと」の仕事をした。
若い学生たちと人生談義をする仕事は楽しかった。また、どんな人事制度が必要なのかを考え、それを実行に移すことにやりがいを感じていた。

そして、40代前半になって、今まで信託銀行がチャレンジしたことがなかった「ベンチャービジネスの新規開拓」の仕事を任されることになった。私は率先垂範して、ベンチャー企業の経営者にお会いした。

その中に何人か、稲盛和夫さんが塾長をされていた盛和塾の塾生がいらした。皆さんは相通じていて、私に言った。
「小林さんは銀行員には向かない。稲盛さんが東京の盛和塾にいらっしゃる時、オブザーバーとして参加したらいい」と。
そして、稲盛さんにお会いすることができたのだ。

稲盛さんに、「素晴らしい人生の生き方」を教えられ、成り行きもあって、身の程知らずで銀行を中途退職した。
トマトは決してメロンにはなれない。私の経営の才はゼロに等しい。ソクラテスの「汝自身を知れ」ではないが、人生七転八倒して、やっと経営者に相応しくない自分を知ることになる。

しかし、銀行に入社した時の、「私は、志高い経営者の血液になる金融の仕事をする。そして、経営者の応援団長になる」という想いは心の底にしっかりと残っている。それは、私のミッションだ。

これからは、金融でない応援、サポート、私の得手を生かしたサポートをしよう。何かできるだろう。
そんなことを考えながら、45歳から25年間、四半世紀を生きてきた。

そして、アンナと巡り逢った。これは"人生の邂逅"だ。

私はアンナに逢って、半世紀前(入社の理屈つけの動機)の"炎える情熱(パッション)"が、心の底から沸々と湧いてくる自分を見つけたのだ。

この志高い若い経営者を、私が持っている"誰にも負けない得手"と"誰にも負けない努力精進”で、応援しようと。

稲盛和夫さんのご本「成功への情熱-PASSION-」にある。

PASSION
P・・・PROFIT(利益)
A・・・AMBITION(願望)
S・・・SINCERITY(誠実さ)
S・・・STENGTH(真の強さ)
I・・・INOVATION(創意工夫)
O・・・OPTIMISM(積極思考)
N・・・NEVER GIVE UP(決してあきらめない)

私の第二生は、熱い「成功への情熱」を胸に抱いて、"花の応援団長"として、“黒子に徹する応援道"を極める後半生にしようと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)


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