11月の能登での生活をスタートさせる
今日(11.14)から25日まで、11泊12日の中能登での生活がスタートする。12月以降も月中の2週間程度は中能登に居住することになる(月末月初は東京での生活)。
今年3月から10月まで、月に2泊3日で中能登町に出張していた。それから、早8ヶ月が経った。
ボランティアの7ヶ月を経て、10月2日に中能登町から"地方創生アドバイザー"を拝命した。
中能登町はOUEN Japan に何を期待しているのか、OUEN Japanは果たして何ができるのか。そのミッションを果たすために、OUEN Japanは中能登町にしていただきたいことは何か。
今月は両者でしっかりと話し合い、合意し、お互いが納得した上で、応援活動をスタートさせたい。
その上で、今期の残りの5ヶ月間(6年11月〜7年3月)は、来期のOUEN Japanのミッションを果たすためのプランを練りに練ろうと思う。
そして、OUEN Japanは、来年3月までの仮免許を経て、7年4月から本格的に活動を開始することになる。
今月は、町役場の各部署との打ち合わせをして課題のヒアリング、近隣の市町とのコンタクト、来年1月25日の[OUEN Japan 信念会〜テーマ:能登の復興、創生の応援〜]の打ち合わせを予定している。
さらに、平安時代から続いているという七尾〜中能登〜羽咋にまたがる邑知地溝帯の"鵜様道中"や"鵜祭り"に関する行事とOUEN Japan がどのように関わるのか、その詰めの打ち合わせもある。
24日(日)に、中能登町の鵜家本家の鵜様道中ミュージアムで行われる"鵜様道中茶会"にも出席することになっている。
16日(土)午前には、中能登町能登部上の先祖代々の墓をお参りする。祖父母と父と、若くして亡くなった伯母が眠っている。
そして眠っている祖父母に語りかけよう。
「ぼうは、これから能登の復興、創生の応援をします。そのために、中能登町に月の半分生活します。能登の墓を墓仕舞いして、東京に移そうと思っていましたが、そんなことはしないから安心してください。ぼうも、まだまだ先になりますが、昔のようにおじいちゃんやおばばと一緒の墓に入りますから、それまで楽しみにして待っていてください」
その日の午後は、金沢の金城楼にて、金沢大学附属高校22回生の古稀の祝いの同期会が開催され、私も出席する。この古稀の同期会はコロナで2年遅れになったものだ。
いつもの周年の集まりは、1/3の50〜60名が集まる。今回ははたして何名集まるだろうか。皆んなとの再会を楽しみにしている。
金沢の幹事は、「これが皆んなで集まる、きっと最後の同期会になるだろう」という。ちょっと寂しい。
私の母校は、当時は1学年150名前後、3クラス(今は120名、3クラス)の高校だ(県立高校はその倍以上の生徒数だろう)。
そんなこじんまりとした、和気藹々とした、自由闊達な校風の高校だった。だから、私は同期の顔と名前をほとんど覚えている。
私たち同期は、まだ古稀を過ぎたばかりだが、男子ばかり一桁の同期が既に鬼籍に入っている。女性は強くて逞しい。
これから、半世紀ぶりの能登での生活が始まる。
11月はまだいいが、12月ともなると、冬の能登に吹くシベリアおろしの風は、冷たく、強い。雪も立山や白山の麓ほどではないが、それなりに降って積もる。空は鉛色で低く、曇天の日々が続く。日中も暗い。だから、自然と心も暗くなる。
太平洋側のカラッとした天高い青空が羨ましい。
そんな北陸・能登の日本海側の生活が耐えられないと思って、私は東京に憧れて、能登を抜け出してきた。キャラクターは中能登を出て、金沢(高校)〜東京(大学、社会人)で、皆さんに可愛がっていただき、私なりの辛酸も舐めてきたことで、根明で前向きな開放的なキャラクターに様変わりしたように思う。
そんな人間が、半世紀経って、そんなに嫌だと思っていた能登が恋しくなって能登に帰るのだ。
室井犀星が詠う"ふるさとは遠きにありて思ふもの"と思っていたが、能登半島地震で、潜在化していた能登への想いが顕在化してきたのだろう。
今は、これからの能登での生活を想像して心が浮き立つ自分がいる。ふるさと能登のために精一杯頑張ろうと思う。
私もそれだけ歳を重ねたのだろうか。
あと10年で、ある程度能登は復旧はするのだろうが、それが能登の地方創生にまで至るのは、20年~30年はかかるだろう。30年かかるとしたら、私は102歳になる。
元気溌剌な百寿のおじいさんになって、日本のモデルになる能登の創生した姿をこの目で見てみたいと思う。それを見届けて、冥途の土産にしたいと思う。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)