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了聞でインタビュー(動画撮影)を受ける

昨日(令和6.5.31)、瑞華院了聞のホームページに載せるというので、インタビューと動画撮影の取材を受けた。

そのわけは、私が、
⑴了聞にて、都市型納骨堂を購入したこと
⑵了聞にて、生前葬を執り行ったこと(生前葬のあと、第二の生の出陣式を日本青年館で行った)
⑶了聞の福井住職に、戒名を授けていただいたこと

この3つがあっての取材となったものだ。

⑴都市型納骨堂を購入したわけ

安田信託銀行の2年後輩である馬形さんが同社に入社され、私の事務所に「了聞に就職した」とご挨拶にいらしたことが切っ掛けだった。

昨今、東京では都市型納骨堂を購入する人たちが増えていると言う。地方から東京に出てきた次男坊・三男坊は、人生を全うしたあとは、地方にある"先祖代々の墓"には入ることは能わず、自らの永遠の棲家を求めなければならない。
海に散骨したり樹木葬だったり、人それぞれの価値観の下でいろいろな形がある。その一つが都市型納骨堂だ。

私は能登半島の中能登町出身であり、長男であるが一人息子だ。中能登町に祖父母からの先祖代々の墓がある。
今年の元日に能登半島地震があって、「ふるさと能登のために、お前ができることをせよ」との天の声を聞いて、3月から毎月、中能登町に出向いているが、それまではふるさと能登は私には遠い地方だった。せいぜい、"ふるさとは遠きにありて思ふもの"だった。墓守りは従兄弟にお任せしていた不孝者だった。

65歳になり、高齢者と呼ばれる歳になった時から、漠然とながら"永遠の棲家"のことを考えるようになった。
この私ですら、なかなか能登に足は向かないのだから、子どもたちや孫たちはもっとそうだろう。私が中能登町の墓に入っても、子どもや孫は盆正月にも来てくれないだろう。
やはり、"永遠の棲家"は自宅がある青山の近くがいいと思うようになった。しかし、自宅近くの青山墓地は空きがないし、多摩霊園は遠い。距離的には能登よりずっと近いが、気持ちは能登以上に遠いと感じる。
妻の父が入っている四ツ谷の墓に入るというのもちょっとどうかと気が引ける。
そんなことを漠然とながら思っていた。

そんな思いで、了聞に見学に行った。軽い気持ちだった。その時は満68歳。あと2年で古稀になる歳だった。
「古来稀なる歳まで生きてきた。そろそろ、いいタイミングかもしれない」と思い、了聞の都市型納骨堂を購入したのだ。そして、近い将来は中能登町の墓を墓仕舞いして祖父母と父を南麻布に連れてこようと思っている。

⑵生前葬を取り行ったわけ

新たな人生を始めるには、古稀がラストのタイミングだろう。
今は人生100年時代である。人生二毛作と思えば、その区切りは人生の中ほどの50歳(知命)か60歳の還暦(耳順)だろうか。
しかし、私は、決して知命の歳にも耳順の歳にも戻ることはできはしない。
それでは古来稀なる古稀(従心)の歳を人生二毛作の区切りにしようと思った。それで、一昨年数え70歳の時に生前葬と出陣式を執り行ったのだ。

人生には、上り坂(登り坂)があり、下り坂がある。下り坂は上り坂より気を付けて歩かなければ転けてしまう。楽なようでリスクはある。気をつけて、有意注意で、山を下っていくことが肝心だ。

その通りだ。悠々自適人生で後半人生の下り坂を、ゆっくり、ゆったりと下っていきたい。人生70年、七転八倒して生きてきたのだから、もうそろそろそんな悠々自適人生もいいんじゃないか。それもいいなと思う。

しかし、人生は一回切り。二つの道を歩くことはできない。だとしたら私は悠々自適人生、下り坂の人生よりも、上り坂の人生を歩いて、歩き抜いて、バタンと前のめりになって倒れて、あの世に行きたいと思うのだ。
その"のぼりざか"は登り坂ではない"上り坂の人生"だ。登り坂(垂直登攀)は第一生、上り坂は第二生。第二生は緩やかな上り坂が相応しい。途中の峠で一休みしながら、峠で英気をもらって、またそこからコツコツコツコツと地道に歩く。そのための生前葬(と第二の人生の出陣式)なのだ。

私はまもなく第二生の2歳になろうとしている。まだまだ、まだまだ、あと29年、あわよくば、あと49年の長い人生がある。

⑶戒名の意味(効用)

私の戒名は、"不動院重陽博愛居士"だ。俗名は"小林博重"。
俗名の"博重"は親が付けてくれたものだ。当然、私が生まれる前のことだから、私は全く関与していない。
しかし、戒名はそうではない。福井住職に付けていただいたが、それは私にご相談いただいて、私が納得したものだ。

[不動院]
祖父は日露戦争の旅順の戦いで、死闘を繰り返し、生き延びて日本に凱旋してきた。
そして、露軍に奪われた金沢の第九師団歩兵第七連隊旗を奪い返した功績もあって、祖父は金鵄勲章の栄に浴した。
これはお不動さまのお加護があってのことだと、祖父は中能登の眉丈山の中腹にお不動さまを建立するため、その先頭に立って精魂を傾けた。
「是非、祖父の戒名である不動院を私にも付けていただきたい」と私が福井住職にお願いしたものだ。

[重陽博愛居士]
「重陽」は陽が重なると書く。重陽の節句は9月9日。1番大きい奇数が9。その"9"が重なる9月9日が陽のエネルギーが重なってたいへんめでたい日なのだと。
福井住職がおっしゃるには、
「小林さんの周りには、陽のエネルギーを持った心優しい、心温かい人たちがたくさん集まってくる。その人たちに"愛を広(博)める"、"集まってきた人たちを広(博)く愛する"のが、小林さんの第二の生のミッションなのです。そんな第二の生を生きて生き抜くことが小林さんのこれからの人生なんです」と。

この素晴らしい、勿体無い戒名のような第二生を生きていきたいと思う。

戒名を授かることは、幸せな人生を生きるために必須なことではないかとまで、私は思うようになった。

これからは、絶えず、この戒名を意識しながら、幸せな人生を生きていこうと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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