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出逢いは、人生の肥やし

人生70年を生きてきて、それはさまざまな出逢いがあった。
「邂逅」と思える、人生を180度変えてしまうメンターとの出逢いもあれば、悪とまでは言わないが、あからさまに人間の欲でつながった出逢いもあった。
前者は、私に生きる力を与えてくれた。しかし、後者は、私の人間としての弱さや醜さを自覚させ、それが私の精神を昇華させるための磨き砂となった。
良くも悪くも、どんな出逢いも私の成長の肥やしにしていかなければならない。そして、実際、全ての出逢いは、私が人生を生きるにあたり、たっぷり私の肥やしになっている。

そして、第二生を生きるに当たり、それまでの出逢いを底辺にして、自らの個性のままに、素直に生きることが、天からの指図であることを自覚するようになってくる。
真っ直ぐな心根を持って、さまざまな人をそのまま受け入れる度量も持ち合わせることができるようになり、「和の心」、「穏やかな心」で、人との関係を構築していく「大人の付き合い」が自然とできるようになってくるものだ。

大器晩成とはよく言ったものだ。
この言葉は、まるで私のことを言っているようだ。と言っても、私が現在「大器」であるわけではない。
烏滸がましいことだが、自己評価すれば、私にその片鱗が見え隠れするようになったということだ。自画自賛というところか。

これくらいの自尊心があった方がいい。それは、謙虚と感謝の心を持っての自尊心でなければならないが。

これからの長い人生が、私を「大器」にする。そのためにも、私は健康で長生きをしたいと思う。

人との出逢いは、偶然なものだ。いや、偶然ではなく、必然なんだろう。「偶然という必然」なのだ。そう思った方が当たっているし、そう思うことで、人生を幸せに生きることができる。
これは心の持ちようで、偶然と思うか必然と思うかなのだが、私は「偶然を装った必然」だと思っている。

若い時にはそんなことを考えたこともなかった。「あぁ、私も老人になったのだな」と思うことが切っ掛けで、天が「因果応報」「善因善果」「悪因悪果」が世の習いであることを教えてくれるのだ。

全く私が仕組んだことではないのだが、思いもしなかったプロジェクトに私が加わることになった。
これも、私がアンナを応援していることから起こった「瓢箪から駒」だ。そんなことで、アンナは私の女神さまと言える。

応援とは何か。

*人のために尽くすことだ。
*援けてほしいと思っている人の思いに応えることだ。
*緩やかな関係でも、応援により、強固なチームワークを構築することができる。
*相手の立場を思い遣り、皆んながWin Win Winの連鎖の関係になることが、皆んなで幸せになることだと、チームの皆んなが思うことだ。
*ビジネスは利を追求していかなければならないが、同時に、「社会に貢献したい」と言う思いを皆んなが持っていることだ。
*それぞれの得手を持ち寄り、その得手が、相手の弱みをカヴァーし合って、一人では凸凹の角張った物体であるものが、バランスのよい丸い球形にアウフヘーベンしていくことだ。

ミーティングのメンバーは、2社と私の3者だが、なぜこの3者がチームを組むのか。
それは、「社会に貢献する」と言う根っこ、大義があるからだと言うことを確認し合うことから、2時間のミーティングはスタートした。

私はこのことで、このチームはうまくいく、ビジネスは成功するだろうと思った。
皆んな、ビジネスは「利と理」「世のため、人のためという『大義』」がなければビジネスではないと思っている、そんな正直でピュアな人たちの集まりだ。

それから、それぞれの役割と、戦略・戦術のミーティングをした。
私の役割は、人と人をつなぐ営業の開拓だ。アンナのビジネスとピッタリマッチする。コラボレーションができる。
そんな有機的つながりがビジネスを大きくしていく。

毎週1回、ミーティングの機会を持つことになった。「一気呵成」だ。「善は急げ」「ゆっくり、いそげ」だ。
それぞれが、詰めるところは詰めて持ち寄り、具体化していく。

全ては、天(神か仏か、サムシンググレイト)のお導きだ。このような出逢いがあったことは、偶然でも何でもない。必然のことだ。

そして、私は、この人生を真っ直ぐに生きて行こうと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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