見出し画像

文スト ゴーゴリの目指す自由


初登場の時あまりにも今までのキャラと違う登場の仕方に何だコイツ!?ってなってその直後の敦へ言った言葉で何言ってるんだ!?!?と感情を振り回されていたが、そんなゴーゴリに気付いたら惹かれていた。天人五衰編終盤で見せた様々な言動も元に深堀して自分なりにまとめてみようと思います。

※宗教の話に関してはできるだけ正確なものを調べて書こうと努めてますが、100%正しいとは言えません。


自由意志とは

『自由意志』とは
一般的に"人間には、何からも影響を受けずに何かを成そうとする気持ちや考えを自由に生み出す能力がある"とする仮設

『free will』の日本語訳が自由意志のことで、これは"人間は運命や神の意志に束縛されないで自らの意志で思考や行動ができる"とする説

キリスト教においては
"罪を犯しうる存在から罪を犯すことのない存在へと向かおうとすることができる存在"が自由であり、そのように願うことができる意志こそが自由意志であるといえる。

「自由意志は存在しない」という主張をする科学者も多くいるらしい。


ゴーゴリの主張

僕は完全に正気だ。殺人の邪悪を理解し人並みの罪悪感も感じている。”ならば何故殺す”と聞きたいかい?そうだな、君は鳥が好きか?僕は好きだ。重力に囚われず飛翔する完全なる自由。僕はそれを求める。だから天人五衰に入った。

貴方が羨ましい。鳥籠で生まれた鳥は己が囚人だと気付かない。己が不自由だとすら知らず檻の中で幸福に死ぬ。檻はここ”頭蓋骨”だよ。僕達は出られない…この温かく湿った地獄から

君達探偵社は正義の化身だ。正直その輝きに惹かれるよ。一方天人五衰の計画は邪悪そのものだ。だが、だからこそ荷担する価値がある
これは脱獄だ。道徳という生得的洗脳からの。僕は幸福より魂の自由を選ぶ。聞け、我が自由意志の絶叫を

文豪ストレイドッグス14巻

◦重力に囚われない=完全なる自由
◦頭蓋骨という湿った地獄からは出られない
◦生得的洗脳=生まれつきの洗脳
◦道徳=良心に従って生きる基準、善悪を判断する基準を指す。人が守るべき規範

①道徳という生得的洗脳からの脱獄
生まれながらに植えつけられる”良心に従って生きていく”という洗脳からの解放
=道徳心がある状態では真に自由であるとは言えない

②重力も生まれながらに与えられる枷
重力という枷からも解放されたい

          ⇓
・天人五衰に加担して人を殺す
→道徳を捨てる為にやっている
=殺人の邪悪を理解はしている

・幸福よりも魂の自由を選ぶ
→正義の化身である探偵社を見て心底惹かれるし、そっちの方が幸福になれるとは分かっているけれどその幸福よりも自由になることを選ぶ

・天人五衰の計画として死ぬ
→①②の達成の証明
具体的に)人を殺した上で自分自身も殺す→道徳からの解放をして、かつ死ぬことで重力からも解放される。

仏教用語になっちゃうけど、「解脱」という言葉がゴーゴリに合うと思った。

げ-だつ【解脱】
[仏](梵語vimokŞa: vimukti)
束縛から離脱して自由になること。現世の苦悩から解放されて絶対自由の境地に達すること。また、到達されるべき究極の境地。涅槃。

広辞苑


心境の変化

実際僕は死ぬ気でいた。真の自由意志の存在を証明する為に。その動機を他者が理解するとは思っていなかったし、実際誰も理解しなかった。だがドス君は違った。彼は言ったよ
「素晴らしい」
「貴方は神に抗い自分を見失う為に戦っているのですね」と。
感動したよ。彼は本質を見抜いていた。ドス君こそ人生で唯一の理解者であり親友、そう思った。そして気づいてしまったんだ。その親友を殺せば僕達は感情という洗脳から自由であると、真に自由な鳥であると証明できるのでは?

文豪ストレイドッグス18巻

キリスト教において、
神の掟従うこと=正しいことという式が世界の心理として成り立っているといえる。

掟の中には神や人を自分のように愛しなさいというものがある。互いに愛することでその結果真の幸福を手に入れることができるということ。

人を殺すという行為はもちろんキリストの考える人を愛するとは程遠いもの。つまり人殺し=神の考えに抗うこと。

神に逆らい、自由を手にしようとしていくにつれて周りとは離れていく。自分は薄れてしまう。

ドスくんという唯一の親友を殺すという行為
→親しい、特別な人とずっと一緒にいたいという人間的本能に逆らうこと。
=感情という洗脳からの脱却


洗脳の身近さ

"洗脳"と聞くと恐ろしい特別なものと考えがちだが、意外と身近なものだと私は思ってます。

side-bで太宰が発した言葉から、
痛みやそこから生まれる恐怖は人間の想像力を掻き立て己を支配する王になり、それから逃れることはできないということが分かる。

その痛みや恐怖は人が生きていく上で必要なものだけど、それこそが生得的洗脳だと捉えることができる。そう考えたとすれば生きてる皆の殆どが洗脳されているということになる。

例えば、小さい子が怪我をしたときに「痛いの痛いの飛んでいけ〜」って言って痛みを紛らわすような自分を騙す行為もある意味洗脳と言えるのではないかな。

この痛みや恐怖も感情の一部。感情がある限り己の行動は制限されてしまう。それが生きる為であっても真の自由になるには要らないもの。

人の四大感情は喜び、恐れ、怒り、悲しみ

これらを失うことで感情という洗脳から解放されはするけれど、感情があることで個性というものが生まれるのではないかと私は思うので、
感情を失う=自分を見失う
になるのかな。


心の矛盾

ああその通りだ。いや違う。いや‥‥その通りだ

ドス君と交わした言葉は決して多くない。
だが、彼と会って以降からの人生はそれまでと全く別物のように感じられる。ドス君の言う通り僕は"自分を見失う為"に戦ってきた。そして今、そうなった。

今はただ‥‥‥

文豪ストレイドッグス112話

この言葉から分かるのはゴーゴリの心の矛盾。
ドスくんを殺したかったけど殺したくなかった。そういうものが見える。

やっぱり初めて自分の理解者を見つけたことの喜びと楽しさには抗うことはできないんじゃないかな。織田作と出会えた太宰のように。

真の自由を求めて生きてきたから、感情から解放するためにドスくんを殺すことが必要だとは思っているけど、でも理解者を失いたくない。
それは、死にたいけど織田作の求めた生き方の正解を知りたいから死ねない太宰と似てる部分があるなって思った。太宰も矛盾した生活を送ってるもんね。


感情からは逃れられない

ドスくんが死んだと太宰に言われたとき、ゴーゴリはシンプルに悲しさがわいてきたのかな。

親友を殺すことが真の自由を手に入れる=自分を見失う、だと思っているゴーゴリにとってドスくんが死んだことで真の自由を手に入れたはずだけど、どうも感情から解放された様子には見えない。

結局、感情から解放できなかったのだ
親友を失った悲しみに支配された


道化は何の為?

ゴーゴリと言えば道化師。
では何故道化師なのか?

①自分に注目を集めたい
→己の自由意志の証明を見てもらうためには道化師を演じてより多くの人の注目を集めたかったから。道化師=ピエロと言えば面白いと言う人もいれば怖いと言う人もいる。ただの一般人に見える人が自由意志の証明だと奇行をするよりもピエロの姿をしたやつの奇行の方が強烈に印象に残るのではないか。

②否定されたくない
→ドスくん以外に理解者はいなかった、という話からゴーゴリはそれまでずっと否定され続けていたのかなと想像する。頭のおかしいやつだと扱われてきたのかな。だから道化師になることで元々道化師は滑稽なことをして笑わすからおかしなやつの方が似合っていて、否定されることはないのかもしれない。

③本来の自分を隠す為
→多分ゴーゴリは一般人なんだろうね。それでも真の自由を手に入れたくなっちゃったから一般人から少しでも離れるように道化を演じたのかな…。


結論

◦ゴーゴリは奇想天外なヤバイやつに見せかけた一般人
◦今のところ感情という洗脳からは解放できなかった

多分ドスくんは死んでないんでしょうけど、この後のゴーゴリはどんな行動を取るんだろう。
自分なりのゴーゴリの解釈としてはまぁそれなりに良いんじゃないかと思うけど、何ヶ月か経ったときにもう一度考えてみようと思います。


付け足し

高校2年生になって倫理を学べると知って大喜びの私。ソクラテスの"よく生きる"好きなんだよなぁ。と思いながら教科書を読んでたら面白いものを見つけまして。

それがカントの考える"自由"

人間には意志の自由がある。他の動物は自然の本能や欲求に従って生きているが、人間は理性によって自分のなすべきことを知り、それを自分の意志で行うことができる。そして、理性は人間としてなすべきことを命令するが、その命令はたとえば「幸福になりたいのなら、正直であれ」といった条件付きの命令(仮言命法)ではなく、ただ「正直であれ」という無条件の命令(定言命法)である。このような理性による無条件の命令をカントは道徳法則と呼んだ。
そして、道徳法則に従うことこそ、自由であるとカントは考えた。たとえば、「怒られたくない」という欲求から「嘘をつく」とすれば、欲求に囚われているのであって、自由とはいえない。道徳法則に従い、欲求を抑えて「正直に言う」ことが自由である。だが、なぜ道徳法則に従うことが自由といえるのか。それは、道徳法則を立てるのが人間自身だからである。カントは、人間が理性によって自ら道徳法則を立て、自らそれに従うことを意志の自律と名付け、ここに人間の真の自由があると考えた。

詳述 公共(実教出版)より


ゴーゴリは生まれながらに身につけられている"道徳"によって真の自由になれていないと思っていて、道徳心を捨てるために人殺しをしていた。
一方、カントは道徳心に従って生きることこそ真の自由である。道徳心からそれる行動は欲求であり、欲求に囚われていることは真の自由ではない。beastで太宰が芥川に対して言った獣の話も少し似ている気がする。

実際ゴーゴリは真の自由を目指してドスくんを殺すことを目標にしてたわけだが……結局ドスくんが死んだところで真の自由になれていないのを見るとカントの考える自由にすごく納得したな、という私の戯言です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?