ワニ電通問題について考える

2019年12月12日、「100日後に死ぬワニ」と名付けられた4コマ漫画が、突如Twitterに登場した。

イラストレーターのきくちゆうき氏の作品で、心優しい青年が、二人の親友とその他多くの人に支えられながら、不器用でも真っ直ぐに生きていく物語である。

ゲームとテレビを見るシーンが多く、だらだらとした無駄と焦りを感じる描写は、現代のありふれた人々の陰をつつき、何気ない日常の素晴らしさを訴えかけている。


そして昨日、感動のクライマックスで終わったワニの物語だったが、その二時間後に商業用ツイートを連投したことで批判が生まれ、今もなおトレンド入りするほど社会に影響を与える結果となった。

批判を加速させたのが、電通問題。

2015年12月25日、電通社員だった高橋まつりさんが過労自殺。1991年にも電通は新人男性社員を過労とパワハラによって、自殺に追い込んだ他、2019年9月、残業時間の上限を定める労使協定を違法に延長させていたことなどを理由として、労働基準監督署から是正勧告を受けるなど、(株)電通は反省せずに若者の未来を奪い続ける企業として社会に認識されている。

その企業が、若い人だけでなくワニの未来まで奪うのか、と人々は憤っているのである。


ワニの死後、不自然なまでのメディアの盛り上がりや、たとえフィクションでも死をお金に換えること、作者の想いの扱い方など、様々な問題が浮き彫りになった。

これからその一部について、考えてみる。



①作者の想いについて

終わり方についての批判を受け、作者と水野良樹氏(いきものがかりメンバー、ソングライター、映画化関係者)が個人会見のような、ラジオのようなものを発表した。

要約すると

(作者) 純粋に、今の大切さを伝えたいと思って始めた。その気持ちは今も変わらない。

はじめはこんなに盛り上がると思っていなくて、段々と応援してくれる人がでてきて商業化に繋がった。

騙されたとか、傷ついたと感じた読者には、ただただ申し訳ないし悲しい。


(水野氏)別れ、見送ることは誰にでもあることだから、共感してもらえる曲をつくった。

ワニを利用しようとも思ってないし、ただ一緒にいいものをつくりたかっただけ。電通は、動画が作れないから個人的に頼んだだけ。あちらから来たわけではなく、こちらが頼んだ人が社員だっただけ。

お金が絡むだけで、作者の想いが無かったことにされてしまうのは悲しい。これからの時代は、良い作品と認めてもらうためにはまず、純粋な気持ちである証明をしなくてはならない。


(作者)友人が、20歳のときに交通事故で死んだ。自分は何もできなかった、行動しなかったのが悔しかった。

ねずみは、ワニを迎えに行くという行動をして、ワニはヒヨコを助けるという行動をした。結果はどうであれ、彼ら自身の思いで行動できたことで、あの日の自分も報われた気がする。

物語自体が、こんな結果になるとは思わなかったけれども。


(※文字にまとめるにあたって、多少の言葉の違いがあります。誤りや抜けがある可能性があります)


きっと作者の思いは、みんなに伝わっている。

無かったことにしたのではなく、きっと隠れているだけなのだ。

商業化発表が一日後ならよかったとか、七日後ならよかったなどと言う人がいるが、彼らはただ文句をつけたいだけで、実際に時間を置いたところで結局批判するにきまっている。

その声が大きすぎるだけで、今まで作品を楽しんできた人たちは、本当は批判したいのではなく、違和感を感じているだけかもしれない。



②一つ目の違和感

①にあげた動画の中で、作者はこうも言っている。

「共感して、同じ目線で見て欲しい。自分のことのように感じて、考えられるような作品にした」

(※実際の言葉とは多少違います)

その願いは叶い、みんな我がことのように思いながら、ハラハラとワニを見守ってきたのである。

だからこそ、自分の人生が汚されたと思ったのだ。

世の中には、完全無垢なものは存在しない。ワニが死なずセンパイと結婚してハッピーエンドな世界は存在しないし、作者もお金を稼がずに食べていくことはできない。

そんなことは誰もが分かっているが、最初の狙いが「お金関係無しに、自分のことのように感じて欲しい」だったからこそ、「商業化ってちょっと違くない?」と感じたのである。


③二つ目の違和感

世界には、この世以外に、完全完璧な世界というものがある。

それは、聖書でいうエデンの園であったり、哲学のいうイデアだったりする。


人は、大学生ぐらいの頃から「虚無感」を感じるようになるらしい。

どんなに楽しいときでも、ふと空虚な感じに苛まれ、そのことについて考えてしまうと「考えてはいけないとあること」について触れてしまったような気がして、パッと思考停止に陥る。

その虚無感は、「しっくりこない感じ」のことであり、違和感でもある。


人は、違和感があるから生きていける。

人生の中で、自分や出来事に違和感を感じるから、人は努力し成長できる。

しかしそれらは、自分が何かしたところで変わるわけではなく、最後は自分の中でいかに納得できるかというところにある。


普段は、人々はそのことを無意識に考えないようにしている。

もし違和感を感じて、考えを突き詰めてしまうと「全部意味ないじゃん、死のう」ということになってしまうからだ。

それが、ワニの死をきっかけに「どうして」「なんで」と考えるきっかけになってしまった。

この問題を追求し過ぎると人は死ぬので、その手前で「ワニくんの死の冒涜だ〜」とか「電通が〜」と騒いでいるのである。



③死をお金に変えること

この「100日後に死ぬワニ」は、マンガというより小説の純文学に近い。

そもそも純文学とは、人間以外に焦点を当てた美しさや素晴らしさを写真のように切り取るもので、エンタメとは人間の動きに重きを置いた劇のようなものである(と私は考えている)。

純文学として99日間過ごしてきた作品が、突然の死によってエンタメのような終わり方をしたことも、違和感を感じる要因になっているのではと感じている。(しかし元から死ぬことは確定していたので、ある程度の批判は避けられなかったとも言える)


死は誰にでもやってくる、だからこそ物語の感情移入の道具として利用しやすい。

死を利用して物語に深みをつけ、それを利用してお金にしようとしたことで、批判を受けるきっかけをつくってしまった。

これが普通のマンガや小説と違うのは、最初からお金で売り出していたわけではなかったということだ。

普通の作品なら、「はいはいお涙頂戴ですね、泣いてあげますよ』などと言いつも楽しんだだろうが、この作品は作者の本来の目的があやふやになってしまった。

しかしお金は稼がなければならないものなので、しょうがない。正しい答えは無いのだ。


これからもきっと、死を扱うことに人は議論し続けるだろうし、それが人間としての成長を生むだろう。

ワニの作者には、「高め合うきっかけをくれてありがとう」とお礼を言いたいくらいである。



⑤まとめ

琴線に触れる作品であったために、予想以上の盛り上がりになったが、結局のところは個人の受け取り方が全てである。

私はとてもいい作品だと思ったし、感動したので、ぬいぐるみでもあれば買いたいと思う。

ワニくんさらば!!!






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