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学歴社会の問題点について考える

中卒として当事者の苦労については色々書いてきたが、社会全体を通してとか第三者の立場から考えたことはあまりなかった。

きっかけがあったので、今回はそのことについて考えていく。



①中卒のせいで困ったこと

ただ生活していくうえでは、あまり困ったことはない。八百屋で野菜を買うときに「中卒には売れません」なんて言われないし、「上級国民様のお通りよ!」なんて道端で突き飛ばされるようなこともない。物を売り買いしたり、娯楽を楽しんだりするうえでは人は平等らしい。

困ったことを強いてあげるならば、就活の面接時に履歴書の最初のほうを見ただけで眉をしかめたり体を僅かに後ろにそらされたりすることだろうか。

実際は、学校でやっていけなかったからといって、社会でもやっていけないわけではない。しかし、「大学受験ができなかったから、それだけの忍耐はないのだ。学校を卒業できなかったから、それだけの協調性がないのだ」と思われても仕方がないとも思っている。

ただ、面接に落ちたからといって私自身の価値は変わらない。見せかけに騙された相手を憐れに思っているので、中卒だからといって正直そんなに困っていない。

あとは、学歴や収入が低いと結婚相談所に登録できないだとか色々不都合があるらしいが、それらも全部問題ない。本当の価値に気付けない人を相手にするほど、人生時間はないのだ。

それと、学歴が低いと将来の選択肢が狭いと言われているが、学歴があってもやりたいことができない人は沢山いるし、僅かな程度の差だと思っている。



②学歴は必要?

日本リサーチセンターが昨年実施したアンケート「現在、必要ないと思うもの」では、1位学歴、2位資格、という結果になった。

確かに、人生で大切なことは「自分がどう生きたいか」ということだと思う。


東大卒でも警備員の仕事がしたければすればいいし、決まった時間に出勤するのが苦痛ならシフトが自由なアルバイトでいればいい。

学校での勉強は、一見社会で生きていくうえでは必要ないかもしれないが、自動車免許が無い人に車を運転させられないように、学歴という資格が無ければできないことは沢山ある。

東大卒は警備員にも学者にもなることができるけれど、中卒は警備員にはなれても学者にはなれない。

私は発達障害があり、例えばマルチタスクが苦手だとか規則的な物を好むといった特徴があるので、本当は倉庫業務がしたいのだが、学歴が無いうえに非力な女性ではちょっとという風に見られて、中々ご縁をつくることができない。

自分の適性に合った仕事をすることが、自分らしく生きるということでもあるが、学歴がないと自分の生まれ持った適性を活かすこともままならない。

しかし、行動力のある人はそんな中でも企業したり、自分を活かす道を選択できるだろう。でも、ほとんどの人、人間というのは意思が弱い。大方の人は困難に抗うくらいなら流されて生きているほうが楽だと思ってしまうので、結果として自分に合わない仕事をして「つまらない苦しい」と思いながら人生を無駄にするだろう。

よって学歴は、必ずしも必要だとは言えないが、あって損は無いものだといえる。



③学歴社会が産んだ幻

高校三年生の冬でこれからの人生の全てが決まる、と思っている人はあまりにも多い。

学生時代に培った劣等感で、人生台無しにする人があまりにも多すぎる。

確かに、いい大学にいかなければ例えば宇宙飛行士とか憧れの職業につくことは難しい。

しかし、受験に落ちたからといって自分の価値が変わるわけではないし、就活で落ちたからといって自分の価値が変わるわけではない。

それぞれがそれぞれの人生を生きていて、ひとりひとりがその人生の主人公なのである。それだけで価値がある。

主人公として生きていくには、自分に正直に、自分らしく生きていかなければならない。

自分らしさとは、宇宙飛行士になるとかお金持ちになるとか、表面的な物差しで測ることはできない。自分らしさとは、合う合わないを見つけることを、楽しみながら生きていくということなのだ。

例えば、大学にいって公務員になることが人生安泰だという考え方は、それぞれの自分らしさを奪ってしまう。

本当はダンサーになったほうがよかったのに、公務員であり続けた人は、自分を裏切り続けた結果定年退職後にうつ病になったり、自分のやりたい事が分からなくなったりするのてある。


自分の人生は、いつだって自分でつくることができる。

やりたい事ができない、なりたいものになれないから人生終わりではない。この世にある概念であなた自身の価値を決めることはできない、大切なのはその中で自分はどう生きたいかということだ。



④自由とは、不自由なもの

自由とは、本来不自由なものである。

他人に敷かれた人生を生きるのは楽だ。気持ちとお金に余裕があれば、趣味に手を広げられるから一見自由だと感じるかもしれない。

しかし、本当の自由とは自分のこの足で歩いていくことなのだ。

茨だらけの道を歩けば体中に傷がつくし、真っ暗な洞窟を歩けば一寸先も見えない闇に恐怖するだろう。しかし、この不自由さが自由の証なのだ。

先述のアンケートで学歴はいらないと答えた人たちが、本当に必要ないと思っているものはそれに付随した社会常識と不自由さなのではないだろうか。


私は高校を中退するまで、自分は大学に行くのが当たり前で当然の如く公務員かOLになって結婚して親になるのだろうと思っていた。でも、学歴を持たないという選択があることを知ったし、レールから外れた人生は負け組なんかではなく、自由を勝ち取ったある意味で勝ち組であることを知った。(実際は、勝ち負け、良い悪いではなく、「合うか合わないか」だと思う)

高校中退も自分の意思ではなかったが、結果としてよかったと思う。



⑤今の教育の形は間違っているか?

中学受験、高校大学と、頭のいい人は頭のいい人で集められ、よくない人はよくない人で集められていく。これは、それぞれに合った環境を用意するうえでは正しいと思う。

平等とは、違ってもいいということ。頭のいい人もよくない人も一緒くたに学ばせることは、かえって不平等だと思う。

しかし、成績の優秀な人が偉くて、よくない人は今のままではダメだもっと頑張れというやり方は、多くの人の心に消えない傷を残すのも事実。健全な自己肯定感を育むことができず、大人になっても劣等感が強く人と比べてばかりになる人は多い。

でも、私はこのままのやり方でいいと思う。

10代の健全な成長には、「大きな挫折」も幼児的万能感を捨てるために必要である。

挫折したときに、そのまま誰かを恨み続けるか、生きるとは何かということを考えるかで人生は変わってくる。

考えなしに競走だけしていると、真面目な人はつぶれる。

競走社会にどう順応しているかということではなく、自分はどう生きたいかということを考える。

自分のあり方に痛みを感じたとき、他人の痛みに心が開かれていくのである。

他人への思いやりを育むためにも、この競走社会は必要なのである。



⑥他人への思いやりに欠ける今

恋愛や子育ては今や贅沢なことであるだとか、若者の貴重な財産を老人に奪われているだとか、誰もが心身に余裕が無くなり、自分がもっているものをどう守るかばかりに気を取られている。

それは、考えなしに競走だけしてきた人があまりにも多いからである。

競走していく中で挫折から逃げて、中途半端な立ち位置で満足し敷かれたレールのうえを転がされながら偽の安心感にしがみついてきた結果、自分のあり方を問うきっかけがなかった。そして、他人を思いやる心も育まれていかなかった。

今日が大丈夫だったから、明日も大丈夫だろう。ここにレールがあるのだから、あっちへ行ってもレールは続いているだろう、という安心感は幻である。

実際は、安泰と言われていた会社に入ったのにリストラされたり、不況で給料がガクンと減ることだってある。

本当の安心感とは、あとで振り返ったときに自分で選んだものが正しかったと思えたときではないだろうか。


誰もが自分らしさを追求する社会になったら、みんな貧乏でも子どもは増えるし老人は尊重されるだろう。結果的に消費も増えて景気は上向きになるだろうと思っているのだが、違うだろうか?



⑦好きなことをして生きていく

好きなことをして生きていくとは、趣味で飯を食べていくとか、ダラダラゲームだけして不労所得を得るとかそういうことではない。

好きなことをして生きていくとは、それをしている自分を好きでいられるものを選んでいくということだ。

嫌なことや、やりたくないこともある。傷ついたり、苦しいこともある。そんな中でも、自分を好きでいられる環境は探せば必ずある。

誰でも、自分らしくいられる力はあって、いつだって幸せになれるのだ。

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