別れが近いかもしれない
<死>はそこにいない時こそ輝いている。
(ジャン=ポール・サルトル)
十年と数ヶ月連れ添ってきた犬が、悪性の癌である可能性が浮上した。
半年くらい前から、急に歩くのを嫌がり始めたのでおかしいとは思っていた。もしその時既に罹患していたとしたら、もう大分末期まで進行しているだろう。
ラブラドールの平均寿命は十歳。明日病院で精密検査を受けるのだが、もはや楽観的な言葉など期待していない。
<死>はそこにいない時こそ輝いている。逝去すること、それは死ぬことではない。この老婦人がお墓の石に変身してしまうことは不快なことではなかった。それはミサの時にパンがキリストの身体へと変化する実体変化のごときもので、存在へと上昇することだ。『言葉』
若く健康な状態で別れることと、肉体が死に別れがくることは、同じ行為でも全く様相が違っている。
死そのものよりも、死へとむかう行為が怖い。
誰の願いも汲むことなく、独立した意志を持って肉体が死へとむかい、死もまたこちらにやってくること。それを恐怖と呼ばずして、一体何だというのだろう。
独立、というよりも細胞一つ一つの願いが全て収束した結果が、肉体の死であるとも言えるかもしれない。
死は光である。
死は暗闇に堕ちることではなく、光そのものに還ることである。
暗闇にいれば、光があることが分かるが、光の中にいれば闇の存在を知ることはできない。
光は闇よりも酷烈である。
サルトルは「輝き」と言ったが、まるで原爆のようなその眩しさは、それと表するにはあまりにもおぞましかった。
彼女(犬)が悔いを残さず逝けるように、私にできることはなんだろうと考えていたら、段々と後悔の念が湧いてきた。
ペットを飼うのは、人間のエゴの塊である。
一日のほとんどを室内で過ごし、首を繋がれたせいで思い切り走ることもできず、健康のためと10年ずっと同じドッグフードを食べて命を繋いできた。
私が、私たちがあなたに惚れなければ、もっと満たされた一生を送れたのではないか。
私が十歳のとき、「命の大切さが分かるから」と父は言ったが、本当に命を大切に思うなら、ペットなんて飼わなければよかったのかもしれない。
こちらの都合で生まれてきて、こちらの都合で一生を決めてしまったことが、ただただ彼女(犬)に申し訳ない。
命の重さや、他の生き物の一生を決める権利なんて本当は無いはずなのに。
何も考えないように空を眺めていたはずなのに、いつの間にか胸の中は罪悪感でいっぱいになってしまった!
前の記事にも登場したとある方に、罪悪感の処理の仕方を聞いてみた。
「出会ったことを後悔しないでください」
確かに、出会いそのものを否定してしまえば、それこそ彼女(犬)の否定にほかならない。
飼うという行為そのものはエゴであったかもしれないが、彼女に注いだ愛情はその範疇を超えた紛いない愛だったのではないか。
「罪悪感は優しさに変えられます。
なにかを一つ、許すことが出きるはずです」
どうしようもない罪悪感で、どうしようもなくなっていたのだが、「許し」を聞たとき私は魂の底から深く納得し、無意識に頷いていた。
与えられた罪悪感が、もし一つの許しをもたらすなら、それは生まれてきた罪だと思う。
生きるとは、罪を重ねることだ。
優しさや、与えるものには限りがあるが、罪は無限大である。人は生きる限り、罪を犯し続けていく。
そんな、生まれてきてしまった罪を許すために、彼女は出会ってくれたのかもしれない。
私は、魂は全て一つの存在であると考えている。
死後解き放たれた魂は、無へと消えてゆくのではなく、先に立った者たちと結号し一つになるのだと思う。
そう、例え様相が違っても、結局は離別も死別も住むところがちがうだけなのだ。
出会いを疑ってしまってごめん。
今までありがとう。
本当の別れがきても、笑顔で送り出せるように、私がんばるからね。
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