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男女の堕落と人類の幸福について考える

心理的に挫折した人間は、男女の距離感を間違える。


この世には、男女が溶けて堕落することが一種の美徳とされている節がある。

シガレットキスをエモいと言ったり、大学生が講義をサボって泥のようにセックスすることを愛だと言ったりするが、それは決して美しいものではない。

心理的に挫折した人間は、男女の距離感を間違える。

人に好かれること、仲を深めるためには性的なアピールしかないと思い込む。人間関係はギブアンドテイクだと学んいるが、自分が与えられるものは肉体しかないと思い、同性(恋愛対象ではない人間)に対する距離感も不自然なものとなる。そしてそれは、悪い人に利用されてしまう。

なぜ、心の挫折が男女の関係に影響を与えるのか、旧約聖書を利用して考えていく。



・アダムとエバ

すべての命あるものの両親が、アダムとエバである。

二人は神の子で、エデンの園に置かれたとき、まだ死すべき体ではなく子ももたなかった。

それが、サタンにそそのかされてエバが禁断の果実を食べ、アダムもまたそれを食べてしまった。二人には変化が起き、病気や苦痛、肉体の死を子孫共々経験する体になったのだが、その時の果実を食べる行為を「アダムとエバの堕落」と表現されている。

そしてその始祖の振る舞いが、男女が罪を共有する行為を堕落の象徴とする要因があると、私は考えている。


結局アダムとエバは甘い言葉の誘惑に負けてしまったのだが、人間とは生来海へと流れる川の水のように、負の方向へと流されていくものである。

欲に従い、人を貶め、絶望に酔いしれていたほうが楽だから。


この負の流れは、ニーチェのルサンチマン論にも通じている。

ある時、地上に二通りの人間が生まれた。
一つは強者、二つはそれに敵わない弱者である。
弱者は己の力を高め強者に立ち向かうこともできたはずだか、彼らはそれをしなかった。
彼ら弱者は、しかし別の方法で強者に立ち向かった。
それは「奴隷道徳」の創設…すなわち「弱者であることが強者であるよりも優れているとされる道徳」を生み出したことによってである。
奴隷道徳において、弱者は「善人」である。
なぜならこの道徳においては、質素な暮らしを送り、名誉や地位を求めず、謙虚であり続けることが「善」とされるからである。
なんてことはない、弱者の置かれた生活環境をそのまま「理想状況」であるとし、卑屈な自己肯定を行ったにすぎない。 これに対して、強者は「悪人」とされる。
強者であるからには他人を蹴落としたり押し退けたりしているはずだ。強者は弱者を虐げている。
そしてそんな強欲と傲慢にまみれた強者の生活は、「善」とされる質素かつ謙虚なものとは程遠い、ゆえに「悪」である。
そして、これこそが奴隷道徳が最も目的とするものである。
すなわち、善き生活を送る弱者こそが正しく、悪しき生活を送る強者は間違っている。
現実では惨めに従属することしかできない弱者は、奴隷道徳の中においては強者に対して精神的に上位に立つことができる。
こうして倒錯した価値観の中に弱者は永住する。
これにより得られる自己肯定ゆえに、弱者はこの思想を変えることはない。
だが、それゆえ…弱者が弱者であることを肯定し続けるがゆえに、現実において弱者が強者に従属する日が終わることはない!(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より)

ここでいう強者とは、現代でいう社会的成功者であったり能力が高い者のことで、弱者とは安倍総理を批判するだけの左〇だったり張り付けになった新約聖書のイエス・キリストだったりする。

キリストは最後の言葉で

「父(神)よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているのかわからないのです」

と残しているが、一見自分を殺そうとする敵をかばう慈悲深き人に見えるが、実際は勝ち目のない敵を蔑むことで、自分を上に置く欺瞞である。


そしてこの強者というのが、魂への配慮(ソクラテス)、弱者が人間のもつ堕落であるという風にもとれる。

「人生短いんだから、快楽を追求して何が悪い!」

「人の仲っていうのは、悪口を言うことで深まるものだから」

「誰にも迷惑かけてないんだから、違法でも麻薬吸ってもいいじゃん?」

自らの行いを正当化し、悪の道(堕落)へ進むことを善とする行為が、このルサンチマン論そのものではないだろうか。



・男女の距離感

話が逸れてしまったが、ここでいいたいのは「恋愛にうつつを抜かし過ぎるな」「異性を利用した堕落に酔いしれるな」ということ。

一番手っ取り早く身近なものであるから、堕落の始まりとして男女の関係が利用されている。


しかし、アダムとエバの堕落は、悪の始まりなどではなく、実際は幸福への道であった。

エバは堕落の後で次のように言った。「わたしたちの背きがなかったならば,わたしたちは決して子孫を持つことはなく,また善悪も,贖あがないの喜びも,神がすべての従順な者に与えてくださる永遠の命も,決して知ることはなかったでしょう。」

そして預言者リーハイはこう説明した。「アダムが堕落したのは人が存在するためであり,人が存在するのは喜びを得るためである。」


最初は堕落に足を踏み込んでもいい。

アダムとエバもそうだったのだから。

でも、それを肯定(ルサンチマン)してはならない。それは、宿題をやらずにゲームに手を出し、首を締められるようなものである。それを振り返り、目指す場所を修正すること。楽(らく)を目指すのではなく、快(快適、ここちよさ)を目指すことが、最終的な幸福へと繋がっていくのだ。

なにかに躓いたときや心を入れ替えるとき、初心に帰るとはよく言うが、 人生も人類そのものの初心、原点に振り返ったときに答えがみつかるのかもしれない。






余談だが、純文学が好きだという知人に、村上春樹氏の小説を推されて読んでみたが、よくいる堕落した若者を推奨するような内容で、陰性しかでないコロナ検査キットのようなものだったので、まるで気味が悪くなったのでこれを書いた。

文学には、悔いのない人生を送る道しるべを示す使命があると思う。苦しみや悪を表現することは、他の芸術でもできるが、そこからどう幸福に繋げるかは、文学にしかできないものがあると感じる。








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