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絶望は必要か
必要な絶望と、必要ではない絶望の違いはなんだろう。
先日、こんなブログを拝読した。
受験に必要な心の在り方、向き合い方や、努力の仕方の核心を着いていて驚嘆した。
特にこの部分
だからこそ、そのとき受験生にとって力となるのは「自分の力を出し切れれば合格するはずだ!」などというありきたりの根拠のない自己肯定の努力にすがろうとするのではなく、その試験日までの毎日の中でどれだけ無力な自分を痛感し、絶望し、しかしそれに抗おうと苦しみ続けたかどうか、であるのです。
自分の学生時代を振り返ると、胸に突き刺さる。
理解と納得と共に、「じゃあ必要ではない絶望は何かな?」と思ったので考えてみる。
社会学者の加藤諦三氏は、思春期には誰もが通らなければならない絶望を「悲しみの丘」と表現している。
幼児期には、誰もが万能感を持っている。
「自分は何でもできる」「何でも知っている」「何をしてもゆるされる」「特別である」という、全知全能にも近い感覚のことで、これこそが自信や自己肯定感の基礎に繋がっていく。
この万能感は、子供が成長する過程で様々な困難にぶつかり、苦手な物に気づいていくと、徐々に薄れ自我の形成が促される。子供が大人へと成長する過程で失われるべき感覚なのである。
この万能感を否定されることは、絶望であり、「悲しみの丘」に当たることでもある。
壁でも、崖でもなく、丘なのである。
初めて目の当たりにしたときは、「うわー、高い山だ」と思うかもしれないが、歩き始めればすぐに頂上が見えてくる。
その時は辛いけれど、最後は誰もが乗り越えられる、優しい愛の試練なのである。
始めに紹介した、嚮心塾の先生の言う「必要な絶望」も、この一種ではないかなと勝手に想像している。
この必要な絶望を得られなかった場合、「見た目は大人 心は幼児」な人間ができあがる。
例えば「東大に受からなかったから自分には価値が無い.......」と人生を諦めてしまうだとか、本気を出さない・何もしないことで「自分には大きな可能性がある」と信じ込む、他者と比較して劣っている・または同じであることに直面しないようにするようになる。
これは、必要な失敗を取り除かれ過保護に育てられたか、逆に幼児的万能感を知る間もなく英才教育やしつけ、育児放棄などによって絶望を見せられたかのどちらかである。
過保護でもないし、育児放棄もされていないけれど絶望したことがない人もいるかもしれない。
例えば、生まれながらにして卓越した才能を持っていたとか、天才的に恵まれた環境で育ったとか。
そういう人が社会で生きていけないかといえば、そうではない。
本人が困っていなければそれでいいのだ、仮に周りが迷惑していたとしても。
それに、無知は才能とも言う。
知らないからこそ大胆な発想や行動が出来ることもあるのだ。
だから、必要な絶望はあったほうが生きやすいが、無くてもいい。
逆に必要ではない絶望は何か。
それは 自分自身に絶望することである。
自分の能力に絶望しても、自分自身、自分の存在には絶望しなくてい。
たまたま、能力が生かされなかったとか、日の目が当たらなかったとしたら、それは社会の在り方が良くなかったのであって、あなた自身の問題ではない。
地球には、地下深くに約100兆トンのダイヤモンドが眠っているらしい。
誰にも見つけてもらえなくても、あなたの魅力は変わらないのだ。
「生きているだけで価値がある」のような生ぬるいことは言わない。
そもそも人生に意味は無い。(ニーチェも言っている)
人生に意味はなくても、誰にも認められなくても、だからなんだと言うのだ。
テレビが見られる、おいしいものが食べられる、太陽光に当たって気持ちがいい、生きているだけでいい。生きている、それ以外に何がいるのだ。
自分の本当の魅力が、自分にしか分からないものならば、一生をかけて自分のために磨いていけばいい。
たとえ人生に意味がなくても、本当に自分の人生に意味がなかったとしても、生まれては死ぬを繰り返すだけの命だったとしても。
また繰り返したい人生を送れば、それでいいのだ。
たくさんの辛いことがあっても、それを全てチャラにできるくらい、幸せで楽しい体験を作ればいい。
できないことは無限にあるけれど、できることやまだやっていないことも無限にある。
今の自分でいい
楽しく生きよう。
追記:こういうものもありました。
おもしろかった(参考になった)ので紹介します。
いちご大福さん、ありがとうございます。
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