帰る場所はなくてもいい
「寂しくて夜眠れないこと、ない?」
と訊ねられ、その時初めて、私は夜眠れる人間になっていたのだということに気が付いた。
ここまで来れたのは、割と最近のことであったと思う。今まで、寂しくて苦しくて眠れない夜を、何度明かしてきただろうか。枕を濡らす日々から、ここまでの道のりを振り返ってみたいと思う。
・他人のために生きる日々
楽しくもないのに毎日ニコニコして、くだらないと感じる話にヘラヘラしながら相づちを打ち、役に立つ人間としてサービス残業早出残業を当たり前にしながら、身を粉にして働く。それら全ての始まりは、居場所が欲しいという気持ちからだった。
親や上司に認められたい、屈託なく笑い合える仲間が欲しい、自分がちゃんと、社会の輪の中にいるという実感が欲しい。
一人ぼっちになるのが怖い、自分を否定されるのが恐ろしい。残業を重ねるほど仕事の量も増えていき、ヘラヘラしていたら段々嫌なことも強要されるようになって、仲間ができたはずなのに、大切にしてもらえてる気がしなくて。自分が自分であるために他人と繋がっているのに、いつもどこかで、何かがゴリゴリと削られる音がした。
誰かのため、何かのために生きることが愛であり人生であると信じ、家族のため、社会のために立派な人間であろうと努力した。
本当に、死ぬ気で頑張った。お願いされればそれに応え、気持ちを察して欲しがってる言葉をかけたり、望みを叶えてあげるために沢山お金を使ったり、寝る前も惜しんで行動したり、自分を抑え全ては他人のために。見返りは求めない。それが美しく清く、そして愛の表現であると信じて疑わなかった。
しかし、こちらはこんなにも配慮しているのに、誰も私の気持ちは気にかけてくれなかった。最初は感謝の言葉があっても、次第にそれが当たり前になっていった。見返りを求めるつもりはなくても、不満は溜まっていき、削られていく心身は、もう何も無い死ぬしかないというところまで小さくなっていった。
・家にいるのに帰りたい
朝、玄関を出る前から帰りたくて。学校や職場にいるときはもちろん帰りたいし、家に帰ってきても、まだ「帰りたい」という気持ちがあった。
休みの日は、休み明けのことを考えてソワソワして何も手につかなくて、夜になると明日が来るのが怖くて、失ったなにかを取り戻すため一秒でも寝る時間が惜しくて、夜中の更新されないSNSを閉じたり開いたりしては、ため息をつく。
私はここにいるべきじゃないんだ、ここではないどこかに、帰る場所があるんだと、段々と夢や理想に縋るようになった。
・帰る場所がない
ふるさとは 遠きにありて思うもの そして悲しくうたふもの(室生犀星)
ずっと、帰る場所がないのがコンプレックスだった。
一人暮らしを始めてから、地元とアパートを何度も何度も往復した。実家は居心地が悪かった、でも、母なる大地、故郷という土地は私を受け入れてくれると思った。
しかし、思い出の場所を巡っても、そこに残っているのは過去の記憶だけで、過ぎていく日々は無情にも、そこを知らない街へと変えていった。
夜中に何度も家を抜け出して、中退した母校の前をウロウロすることもあった。しかし門は固く閉ざされていて、監視カメラが赤く静かに点滅していた。同窓会に参加する権利がなく、思い出を語れる人もいないから、せめてもの思いで過去に浸りに来たのに、それすらも拒絶されている気がした。
地元に拒絶されても、今住んでいるところに受け入れられているとは思えなかった。
職場の人たちも、私がこのまま失踪してもなんとも思わないのだろうと思った。
このまま私がいなくなっても、きっと誰も悲しまない。それが悔しくてたまらないから、私はまた一人暮らしのアパートへ帰るのだった。
・私の居場所
次こそ、次こそは。と思いながら、仕事も、住む場所も転々とした。ここではないどこかに、私の居場所がきっとある。そう信じて、この小さな島国の中をさ迷った。
しかし、どこへいっても居場所はない。
孤独は癒されず、本音を語るどころか、上辺だけの友だちすらできなかった。
そして気付いた。
どこかに居場所があると思うほうが間違っていたのだと。居場所は、誰かに与えられるものでも、自分でつくるものでもなかったのだと。
家に帰っても帰りたい、私の帰る場所。
それは、自分自身だった。
・ありのままの私
他人に気を使い、他人のために生きていたとき、いつも身体や顔がどこか強ばっていた。自分の吐く息や言葉に緊張が混じっていて、釣られて相手もどこか喉に詰まったような話し方になっていた。
今ならわかる、自分が他人のために気を使っていたつもりが、きっと気を使われる方だったのだ。なんでもかんでも「YES」で答える、顔色を伺う、どれも相手が求めていることではなかった。私がやっていたのは、自分のために、これはこうだと決めつけているだけだったのだ。
賢い生き方とは、上司に上手く取り入ったり、怠けて他人に責任を押し付けることではない。賢さとは、世の動き、相手の動き、それらを読む力である。
しかし、読む力があっても、自分を知らなければ上手く立ち回ることはできない。
時間前行動、言われてないこともやる、過度の謙遜、上司におべっかを使う、同僚と親しくする、等々。どれもやらなくなっても、仕事はできることに気付いた。仕事に仲良しごっこなんていらない、働くのには最低限の礼儀さえあればよかったのだ。
自分を知ること、弱みと強みを理解している人が、世渡り上手であり、賢い人だと気付いた。
自分を知り、感じる違和感や心の声を聞いて、自分にできること以上のことをしなくなって、いつの間にか誰とでも心地よく話ができるようになっていた。
夜もぐっすり眠れるようになって、何度も目が覚めることもなくなった。疲れを溜めることもなくなって、仕事も調子の悪いときにはある程度力を抜く術が身についた。
今までは仕事中や苦しいときも常にニコニコしていたけれど、愛想笑いを辞めても誰かに嫌われることはなかった。かえって、気兼ねなく接してくれる人が増えた気がする。
自分の人生を優先する、自分の心地良さを追求することで、周りも心地よくなっていく。自分らしくいることが、結果として周りのためにもなっていたのだ。
・もう寂しくない
自分を取り繕わなくなって、今まで以上に、誰かと接する機会は減った。
でも、あんなに寂しくて気が狂いそうになっていたのに、そんな気持ちをいつの間にか忘れたように感じなくなって、日々の小さなことを大切にできるようになった。
居場所がない、とは「自分がない」ということだった。
つまり、「自分がある」ということは、
行くところすべてが自分の居場所になる
ということだったのだ。
・行きたい場所が、自分の居場所
久々に会った友人に、「寂しくて夜眠れないこと、ない?」と聞かれた。
その友人とは、昔はよく夜中にチャットをしたりしたものだが、お互い忙しくなっていくうちにしばらく疎遠になっていた。
私は、迷う前に口が動いた。
「ううん、もう寂しくない」
「色々な場所へ行って、気がついたんだ。行くところすべてが、自分の居場所になるっていうことを」
人生、何も不安に思うことはない。
行きたい場所が、行くべき場所で、
行くところすべてが、自分の居場所である。
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