主体的な人間であってほしいと思うことは、欲張りなのだろうか

私は基本、他人に何かを求めることはしない。
性格、外見、仕事、etc。その人がどんな人であるかよりも、一緒にいて心地よい関係を育めるのならば、それで私は満足である。しかし、時にどうしても「こういう人であってほしい」「こういう人と関係を築きたい」と思うものがある。それは、その人が生産的な人間であるか、何かを創り出す側の人間であるかということだ。
何かを創り出すということは、なにもクリエイターだけの特権ではない。全ての人が、可能性として持っているものである。

食べ物、娯楽、電気や水も、私たちは日々あらゆるものを消費して生きている。そして、企業の下で働くことで、私たち自身も消費されて生きている。
しかし、何かを消費する中でもそこから新たなものを創り出すことはできる。例えば、私は"駅メモ"というゲームが好きなのだが(※スマホのGPSを利用した位置情報ゲームで、全国9000駅以上の駅にチェックインしていくスタンプラリーのようなもの)

私は駅メモというゲームが好きです。以前は、自分の興味のある地域や場所にばかり出掛けていましたが、このゲームと出会ってから関心の無かった場所や興味のなかったことでもやってみると意外と面白いことばかりであることに気が付きました。またゲームを通じて地方の地域社会にも関心を持つようになり、土地のものを食べたり資料館などを見学することはもちろん、流行りの店だけではなく、地元で長く続いている店や伝統工芸品などを積極的に購入するようになりました。その他、お店の人やたまたま隣の席に座った人などにも積極的に話しかけ、その土地での暮らしや娯楽などについても積極的に訊ねたり、何気ない会話なども楽しむ様にしています。地元の穴場なども教えてもらえて面白いです。それ以外にも、ゲームのプレイヤー同士で色々な場所でオフ会を楽しむようになりました。年齢や性別、職業や住む場所などあらゆることが関係無しに様々な人と交流を楽しむことができて、人と親しくなることに理由はいらないのだということに気付きました。この経験が、職場や近所の人とも交流を育むきっかけにもなり、また道端で困っている人にも気軽に声をかけられるようになりました。これらの経験を通して、今後は地方の魅力の発信や、世代を超えた交流のできる場所づくりをしていきたいです。

とまあこんな事を考えてゲームをしている訳である。ゲームのユーザーとして他人の作ったコンテンツを消費しながらも、また他の場所で喜びを還元したり新たなきっかけなどを創ることができるのである。

その他、仕事で例えを考えるならこんなのはどうだろう。

僕は飲食店で働いています。子供の頃の夢はパイロットになることで、理想と違う仕事に就かなければならないことはショックでしたが、今の仕事なりのやりがいを見つけて楽しく働いています。お客様に「ありがとう」や「美味しかった」と声を掛けて頂けることが嬉しくて、自分も飲食店を利用したときは積極的に「美味しかった」と伝えるようになりました。また、職場には外国人実習生のフィリピン人がいるのですが、彼は不慣れな土地でも一生懸命に働き、更に日本語の勉強にも真面目でとても尊敬しています。彼の頑張る姿をみて、日本で暮らす外国人の手伝いをしたり、日本に馴染めるように仲良くしたいと思うようになりました。そのため、最近では外国語の勉強をしたり外国人の営むお店に行ってみたりしています。外国人のお店では、同じ国の出身の人たちが固まって集まっていることが多いですが、いつか日本人を含む様々な国の人がみんなで仲良く暮らせるようになれたらいいなと思います。パイロットにはなれなかったけれど、今は国と国、隣人と隣人を繋ぐ架け橋になりたいです。そのために自分にできることは何かを、まずは職場の実習生との交流の中で考えていきたいです。

と、こんな風に、働いて遊んで寝るだけでなく、今の環境の中で新しい興味を発見したり、今の自分にできることを積極的に探して自分の可能性を広げていくことは、どこでどんな暮らしをしていてもできるはずである。


ところがどうであろう、物を買うだけ、ゲームで上位ランクを目指すだけ、リゾートにバカンスに行ってリラックスするだけ。今が楽しければそれでいいと、今の日本は消費するだけの生活に慣れきってしまった人ばかりではないだろうか
何かを創る側の人間になる、生産的に生きるとは、つまり主体的に生きるということである。今日の夕飯だけでなく、今の仕事、今の人生、全ては自分で選んできたことなんだという自覚を持つ、責任を持って生きる。そして、これからの未来も自分で選んでいくのだという覚悟があれば、自ずから生産的な生き方をしているはずである。
何かを創る、生み出すということは、現実的な目標とはまた別の、夢や理想を持つことでもあると私は考えている。「仕事の幅を広げるために、資格の勉強をしています」とか、「歌うことが得意なのでVTuberになります」とかそういう生産とはまた違うもので、どちらかといえば余ったお金を貯金ではなく児童養護施設などに寄付をするというような行いに近いものであると思う。自分はどんなことが好きか、何が嬉しいのかを探し発見しながら、得たその喜びを他者に還元していくことが、創るという事ではないだろうか。

今、生きている。この命、この社会、この時代は、昨日を生きた誰かから受け継いできたものである。今の消費社会は、使うだけ、利用するだけの一方通行で、またどこかへ受け継ぐとか、還元するという思考が失われているように感じる。つまり、生産的、主体的な人間というのは、何かを受け継ぐサイクルの中で生きている、社会の中で活きている人間ということでもある。


私はこの話を、親しくなった友人に時々話すことがあるが、理解を得られたことはない。何かを消費したり、ただ今を楽しむことの何がいけないのかが分からないと不思議な顔をされる(決していけないというわけでは無いのだけれども)。
生産的な人間として生きるという、同じ景色を見られない寂しさと、その人の良さが活かしきれてないということの二重の寂しさを、私は日々感じている。それがとても寂しくて、悲しくて、「あぁこの人は生産的な人であってほしいなぁ」とつい期待しては、そうではなかったときの寂しさをまた繰り返し、それが私には耐え難い苦痛である。しかしまた、この苦しみを理解してくれる人もほとんどいない(というより、いたことがない)。

他人に、美しくあってほしいとかお金持ちであってほしいとか優秀な人間であってほしいと望むことは欲張りなことであると思うけれど、生産的な人間であってほしいと思うこともまた欲張りなことなのであろうか。


しかし、それでも、私は人間が好きである。

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