主体的な人間であってほしいと思うことは、欲張りなのだろうか
私は基本、他人に何かを求めることはしない。
性格、外見、仕事、etc。その人がどんな人であるかよりも、一緒にいて心地よい関係を育めるのならば、それで私は満足である。しかし、時にどうしても「こういう人であってほしい」「こういう人と関係を築きたい」と思うものがある。それは、その人が生産的な人間であるか、何かを創り出す側の人間であるかということだ。
何かを創り出すということは、なにもクリエイターだけの特権ではない。全ての人が、可能性として持っているものである。
食べ物、娯楽、電気や水も、私たちは日々あらゆるものを消費して生きている。そして、企業の下で働くことで、私たち自身も消費されて生きている。
しかし、何かを消費する中でもそこから新たなものを創り出すことはできる。例えば、私は"駅メモ"というゲームが好きなのだが(※スマホのGPSを利用した位置情報ゲームで、全国9000駅以上の駅にチェックインしていくスタンプラリーのようなもの)
とまあこんな事を考えてゲームをしている訳である。ゲームのユーザーとして他人の作ったコンテンツを消費しながらも、また他の場所で喜びを還元したり新たなきっかけなどを創ることができるのである。
その他、仕事で例えを考えるならこんなのはどうだろう。
と、こんな風に、働いて遊んで寝るだけでなく、今の環境の中で新しい興味を発見したり、今の自分にできることを積極的に探して自分の可能性を広げていくことは、どこでどんな暮らしをしていてもできるはずである。
ところがどうであろう、物を買うだけ、ゲームで上位ランクを目指すだけ、リゾートにバカンスに行ってリラックスするだけ。今が楽しければそれでいいと、今の日本は消費するだけの生活に慣れきってしまった人ばかりではないだろうか。
何かを創る側の人間になる、生産的に生きるとは、つまり主体的に生きるということである。今日の夕飯だけでなく、今の仕事、今の人生、全ては自分で選んできたことなんだという自覚を持つ、責任を持って生きる。そして、これからの未来も自分で選んでいくのだという覚悟があれば、自ずから生産的な生き方をしているはずである。
何かを創る、生み出すということは、現実的な目標とはまた別の、夢や理想を持つことでもあると私は考えている。「仕事の幅を広げるために、資格の勉強をしています」とか、「歌うことが得意なのでVTuberになります」とかそういう生産とはまた違うもので、どちらかといえば余ったお金を貯金ではなく児童養護施設などに寄付をするというような行いに近いものであると思う。自分はどんなことが好きか、何が嬉しいのかを探し発見しながら、得たその喜びを他者に還元していくことが、創るという事ではないだろうか。
今、生きている。この命、この社会、この時代は、昨日を生きた誰かから受け継いできたものである。今の消費社会は、使うだけ、利用するだけの一方通行で、またどこかへ受け継ぐとか、還元するという思考が失われているように感じる。つまり、生産的、主体的な人間というのは、何かを受け継ぐサイクルの中で生きている、社会の中で活きている人間ということでもある。
私はこの話を、親しくなった友人に時々話すことがあるが、理解を得られたことはない。何かを消費したり、ただ今を楽しむことの何がいけないのかが分からないと不思議な顔をされる(決していけないというわけでは無いのだけれども)。
生産的な人間として生きるという、同じ景色を見られない寂しさと、その人の良さが活かしきれてないということの二重の寂しさを、私は日々感じている。それがとても寂しくて、悲しくて、「あぁこの人は生産的な人であってほしいなぁ」とつい期待しては、そうではなかったときの寂しさをまた繰り返し、それが私には耐え難い苦痛である。しかしまた、この苦しみを理解してくれる人もほとんどいない(というより、いたことがない)。
他人に、美しくあってほしいとかお金持ちであってほしいとか優秀な人間であってほしいと望むことは欲張りなことであると思うけれど、生産的な人間であってほしいと思うこともまた欲張りなことなのであろうか。
しかし、それでも、私は人間が好きである。
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