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教育について考える

あるところに、「高校は行かずに出家したい」という中学生に、「まずは高校へ行き、できれば社会経験を積んでから出家なさい」とアドバイスした和尚さんがいた。

それに対し、「出家は進学や就職の延長線にはない」と違和感を覚える和尚さんがいた。

私は後者の和尚さんに、「しかし、未熟な者を導くのは大人の役目ではないですか。どういう自分になりたいか、そのための手段として今必要なものかを一緒に考えてみるというのはいかがですか」と聞いてみた。

すると和尚さんは言った。

「出家は進路指導に類する話ではない」「考えを確かめてやるのが大人の嗜みだというのも分かるが、人の発心を確かめてやれるのかと問われれば、私は怯むでしょう」



私も中学生の頃出家したいと思っていた。もちろん心から仏教について学びたいという意志が大きかったけれど、どこかに今の環境から逃げたいとか学校に行きたくないという気持ちがあった。

逃げるための何かは必ず失敗するということ、中卒はそれなりに大変であること、社会経験は自分にとってかけがえのない財産になったということなどから、私は親切心でその中学生のためであると信じて、どちらかというと前者の和尚さんの肩を持っていた。

しかし、社会に自分を合わせること、他人の人生を矯正すること、学びたいときに学べないことを、果たして釈迦は喜ぶのかということである。

仏教の教えは全ての人に開かれている。俗人でも、罪人でも、もちろん子供であっても。

後者の和尚さんの話を聞き、私はハッとさせられた。出家に関する話で言えば、何が良い悪いよりもまず、釈迦の願いはなにかということを考えなければならなかったのだ。



・人生に進路はあるか

僧侶になると、それを職業としてお金を稼ぐ道があるからある意味就職のような立場に見られがちだが、出家したとしても、永遠にそのお寺に仕えるだとか、はたまた仏教に関すること以外しちゃダメというようなことは全くないのである。学ぶことも、そこからどうするかというのも全て自由なのである。

それは、大学などの学校でも、就職でも、どれをとっても同じことが言えるのではないだろうか。


いい大学へ行き、いい会社に入り、結婚し、子供を産むことがいい人生だと教えられ、多くの人がそれにより近づくために努力してきた。

しかし、いい大学へいっても非正規雇用で働かざるを得なかったり、いい会社に入っても薄給激務だったり、結婚しても互いを憎み傷つけあったり、子供を産んでも引きこもりになって親の年金を食いつぶしたりなど、昔はそれでよかったかもしれないけれど、今はもう何が正解だと決めつけられる時代ではなくなってきている。


これはこうだとはっきり言えるものはひとつもないし、自分にとっては良くても他人にとっても同じかどうかは分からない。

「亀の甲より年の功」「親の小言と茄子の花、万に一つの無駄もない」「老馬の智」、など年上を敬う、意見を大切にするべきということわざや文化があるけれど、狩りをしたり農作物を育てるだけで手一杯の時代にはそれが大切だったかもしれないが、人間の寿命が伸びて社会が目まぐるしく変化し続けている今の時代にはそぐわなくない価値観となってきている。


子どもを「自然派食品だけを与えて大切に育てたら、ジャンクフードばかり食べる大人になってしまった」とか「テレビを見せずに育てたらゲーム三昧になった」というような話を耳にするが、子どもは大人の思い通りにはな育たないものである。

本当にいいことだったとしても、それを決めるのは自分自身である。

もう、何かを教えるという行為は時代遅れなことで、聞かれたら答えるだけ、いいと思うものをシェア(共有)することが主になる時代がきたのではないだろうか。



・教えることが人のためにならないこともある

私の知り合いに、親が助けてくれたり障害者年金があるからといって、働かず、あるがままにお金を使い借金を繰り返してしまう人がいる。

そしてそれを親が注意すると、なんだコノヤローと言って逆上し「じゃあ私が死んでもいいというのね」といって脅すので、親は頭を垂れて従ってしまうという負の連鎖が起こっている。

本人は、頭ではお金は働いて得なければならないし、家族は大切なものだし大事にしたいんだと思っている。しかし、人間は楽なほうへと流れてしまうものだ。この先に待っているのは、破滅である。


その人にとって必要なことは、お金であっても、人の心も、使い果たせばなくなるということを知ることである。

親は、本人のためを思って借金を肩代わりしたり、叱ったりしている。しかし、それが本人の気付きを奪っているのである。

仮に、叱ることで本人が行動を改めたとする。しかし、どこかに不満が残っていて、やらされていると思いながら働いたり、勝手に決められたと恨んだり、何かにつけて家族を傷つけようとしたりするかもしれない。

失敗するかもしれないという不安を抱えて闘った経験や、本当に失敗をし、それから立ち直った経験が人生の悩みに対する抵抗力となり、自分を信じる力になる。

成長の仕方は人それぞれ違うのである。「私はこれができるのに、なんであなたはできないの!」というのは愛ではない。例えその先にどれほど傷つくことがあったとしても、何もしない、ただ見守るだけというのが、その人の成長のペースを尊重する愛のある接し方ではないだろうか。



・人生は自由だ

人生に失敗はない。

何かを間違ったとしても、それは失敗ではなく成長なのだ。

道があるから歩くのではない、自分が歩くから道ができるのだ。


人生はうまくいく以外ありえないのだ。

良いも悪いも、好きも嫌いも全部自分で決めていい。答えはすべて自分の中にある。それが、社会的な成功と結びつかないこともある。ただ、それだけだ。



人生は、どこまでも自由だ🗽





















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