目上の人間と衝突ばかりする理由を考えてみた

私は、目上の人間と衝突ばかりしている。

高校を三回中退したときも、全部目上の人間とぶつかって居場所を無くした。

昨年は、とてもやりがいのある仕事を見つけたのに社長と衝突して辞めた。

そして今、二ヶ月前に就職活動をして入った職場でも上司と衝突し、絶賛仲違い中である。

なぜ衝突するのか、居場所を失うことは悪いことなのかを考えてみる。



・許せないものがある

私には、許せないものが二つある。


一つは、自慢話ばかりする人だ。

同僚だったり、子供がする分には気にならない。でも、上に立つ人間が、立場を利用して延々と自慢してくる。自慰行為に利用されることが、我慢ならないのである。

自慢するというのは、「私は傲慢です」と言っているに等しい。

子供は、親に自慢して「すごいね、ステキだね」と言ってもらうことで自我を育てていくが、大人がやればそれは他人を巻き込んだ自慰行為である。

人の上に立つ人間は、下の人間が人を立ててくれるのをいいことに、どんどん調子にのっていく。

人は歳をとるほど頑固で傲慢になっていくが、大人こそ素直さと謙虚さを持ち、自分には至らないところがあるのだと受け入れる強さを持たなければならないのである。


二つ目は、自分の非を認めない人である。

人の上に立つと、「自分の言うことは絶対だ!」「自分以外の意見は認められない!」というふうに、自己中心的になる人は割とよくいる。

頑固で傲慢なところは、自慢話をする人と同じである。

そして、「自分は悪くない」「私が正しい」という態度をとられると、「私の上に立っているくせに、あまりにも子供すぎる」と一気に尊重する気持ちが失せてしまうのである。


どちらにも共通しているのは、こちらは相手を尊重しているのに、相手はしてくれないということである。

「天は人の上に人を造らず」、人間の重さに上下はない。立場や貧富に差があることは「他人とは違ってもいい」という平等さであり、相手をないがしろにしていい理由にはならない。人は平等に産まれてきて、対等な存在なのである。

こちらが尊重しているのにしてくれないのなら、相手にする必要がない。というより、相手にしてはいけないのだ。



・居場所を失う恐怖

いじめられていても、居場所を失うほうが怖いからいじめを受け入れてしまう。不等な労働条件でも、今の生活を失うほうが怖いから受け入れてしまう。

居場所を失うほうが怖いから、自分を押し殺してしまう人が多いが、

人間には許してはいけないものがある。

個人の尊厳を損なうものは、絶対に許してはいけないのだ。それを受け入れるということは、つまり他人の人生を生きるということ。自分の人生を生きられなければ、最後に悲しい思いをするのは自分である。

人と人の相性があるように、自分と環境もまた相性がある。「これも違った」「あれも違った」と自分に合うものを探していくことが、自分を見つけることであり、自己実現することではないだろうか。



・まとめると


私が、個人の尊厳を損なわれると感じるのが、上記の許せない二つのことであり、それを満たしていたから目上の人間と衝突してきた。

私は、今までに衝突してきた人たちのことが嫌いである。

好きだけではない、「嫌い」も堂々と言えることは、それもまた自己実現なのだ。


昔、「好きの反対は無関心なのだから、嫌いだと思うなら好きってことだよ」と言われたのだが、今ならはっきり違うといえる。

世の中に、ゴキブリを嫌う人はごまんといるが、それはゴキブリが好きだから嫌いなのか?違うだろう?



・私に足りなかったもの

こちらが尊重しているのにしてくれない人は、相手にする必要がない。

が、私はその環境を立ち去るということで、結果として相手にしてしまった。本当に相手にしていなければ、その場を去らなくても「ふーん」とあしらうだけで済んだのである。

尊重してくれないと感じる人は、つまり自分と合わない人なのだ。

この人は自分と違うんだな、と考えることも尊重の仕方の一つである。

「君はそういう奴だったんだな」とエーミール(小説:少年の日の思い出の登場人物)みたいに考えられていれば、許す許さない以前に関心を持つことがなかったし、勝手に尊厳を損なわれていると感じることもなかった。


だから、自分とは合わないと感じたら、心の中の繋がりは切り捨てる、現実では最低限の付き合いに留めておくことが、世渡り上手の秘訣だと学んだ。終わり☆




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