ダイヤの原石
私がいた学校では、文化祭の催しのひとつに「ダイヤの原石」というものがあった。
特技の発表会のようなもので、才能に光を当てる場所として提供されている。
体育館の壇上で光を浴びる彼らは、まさにダイヤモンド。スポットライトだけではない、彼ら自らが放つ光を受けながら、当時私は「ダイヤになれなかった人は、どうやって光ればいいのだろう」と考えていた。
ある時、尊敬するある方に相談をした。
「私にはいいところがひとつもありません。劣等感でいっぱいなんです」
するとその方は言った。
「愛されたければ、愛しい人になるように。
輝かなければ、見つけて貰えないのです」
・輝くとはなんだろうか
美しさや才能などの素材を持つ人は、羨望の眼差しに照らされ輝きを放つだろう。
素材を持っていなくても、お金や名誉、社会的地位などの付加価値があれば、自然とライトを当てられるだろう。
しかし、何も持っていない、何も手に入れられない人間はどうする?どうしたらいいのだろうか?
しばしば、社会から逸脱した行動をとることで、アイデンティティを得ようとする人がいる。
「犯罪は、何も持たずに産まれたやつの義務なのさ」
ある映画で、こんなことを言うシーンがあった。
常識から外れた行動をすること、犯罪を犯すことは、自然とマイノリティへ昇華させ価値を産むだろう。
それしか、それしかないのだろうか?
・ 一点物が売れるのはなぜか
ものごとの判断には、ものさしが必要である。
ある物の価値を測るには、他の物と比べなければ分からない。
例えばファッションなら、「エルメス」や「GUCCI」と聞けば、あぁ高くていい物なんだなということが想像できる。「しまむら」や「GU」と聞けば、安くて種類が豊富だよなと分かる。
しかし、"一点物"に価値があるのはなぜだろうか。
それしかないから、比較できるものがない。
なのに「あぁ、これはいいな」とか「ステキだな」と感じるのは、それにしかない良さがあるからなのだ。
何かと比較しなくても、確かに感じる良さがある。
それは、人間も同じなのだ。
・自分にしかないもの
人間関係は、ギブアンドテイクだと言われる。
それは、学校でぼっちにならないためだったり、ステータスを誇示するためかもしれない。
他にも「なんだか分からないけど居心地のよさ」というのも、一つの立派な与えるものになる。
友だちと遊んでいて、「なんだか分からないけど、一緒にいて落ち着くな」「一緒にいて楽しいな」と感じたことはないだろうか。
その「なんだか分からないもの」は、友だちの目に見えない才能であり価値なのだ。友だちもまた、あなたに目に見えない価値を感じているから、一緒にいるのだ。
・何よりも輝いているもの
人は目に見えているものに惑わされがちだが、見えなくても確かにそこにあって、価値あるものが存在する。
しかし、たとえ価値があっても気付かれなければ無いのと同じ。真っ暗な道に一万円札が落ちていても、見えなければ拾われない。
見えないものに光を当てられるのは、自分しかいない。
それを照らせる唯一のライトとは、「自分への信頼」なのだとおもう。
お店で、「これは失敗したゴミなんですけどね〜」と商品を紹介されたら買う気にはならない。「自信を持って作った、選んだんです」と言われたら、「おっ」と興味が湧いてくる。
それが自分自身の場合、「自分を好きでいること」「今までの自分を信じること」なのだ。
「自分を信じる」意外にもう一つ、光を当てる方法がある。
それは、「光を当ててくれる人を見つける目を養うこと」だ。
自分を客観的に見るには限界がある。外から見るには、外の人間が一番なのだ。
信頼できる人や、好きでいてくれる人を探すこと。
環境に合わせて自分を変えるのではなく、今のままの自分に合わせて環境を変えていくこと。
同じ仕事、同じ特技を持っている人は沢山いても、あなたという人はここにしかいない。
"あなた"だからいい、"あなた"だから価値がある。
ダイヤモンドじゃなくていい、そんなあなただからいいのだ。
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