自慢は悪いことなのか

自慢や自分話(自己アピール)は、基本敬遠されがちなきらいがある。

理由は主に二つあるだろう。

ひとつは、比較・自分のほうがより優れていることを誇示している場合があるということ。それにより煽られるような形で、聞き手は嫉妬や劣等感を抱いたり、「私ももっと〇〇しなきゃ」と自分自身のあり方に不安を感じやすくなる。聞き手にとってそれは、間接的な非難と同義なのである。

ふたつめは、誰もが根底に「他人から認められたい」という欲求を持っているということだ。人の話を聞くよりも自分の話をするほうが気持ちがいいため、"聞き上手"になることで異性にモテたり人に好かれようとすることは、心理テクニックの一つとして取り入れられているくらいである。


私自身、他人の自慢話に不快になるときもあれば、気付けば自分の自慢をベラベラ喋っているときもある。

何をした、何ができる、どんなことを考えているか聞いて欲しい。人に注目されたい、そして時には他人の居場所を奪うことでその視線を集めたいとも考える。(もちろん、決して行動には移さないが)

人に嫌われたくないから、大人気ないから、という理由で自慢や自分話ばかりしないよう常に意識はしているけれど、どれだけ反省や自戒をしても完全に止めることはできず、小出しにするとしてもコントロールは非常に難しい。

ある日、いつもの様に「あぁ、今日もまたつまらぬ話をしてしまった……」と慚悔していた時のこと、私はふと考えた。「自慢は、果たして悪いことなのか」と。



ここで、自慢によって生じるネガティブな心の動きを考えてみる。

①他人より優れていることを誇示するための場合

「自分はこんなに頭がいいんだぞ」「高級ブランドが買えるほどお金があるんだぞ」というような自慢、他人より優れているという意識は、自分自身を傷つけている。〇〇でなければ愛されないと、自分を脅していることと同義だからである。また、「どうしてこんなに頑張っているのに愛してくれないんだ」という他者への怒りも含まれている。

そもそも、愛されているとはどういうことだろうか。他人は自分が求めるだけの関心を与えてはくれないということに気付き、宗教としての神ではなく、自分自身の中にいる神に愛されていることに気付かなければ、自分を罰するためのこの自慢話はやめられない。


②自慢話で傷つく場合

自分がこの世でたった一人の存在であるならば、他人と比べることもない。他人との境界線をきちんと引くことで、何を言われても動じなくなる。


③他人に認められたいからという場合

すごいね、よく頑張ってるねと言われたい。生きているだけでエラいと言われたいし、ダメな自分も含めて愛して欲しい……。誰もが少なからずこのようなことを考えるだろう、しかし己という存在はこの世でたったの一人ぼっちであり、自分が自分の親友になる以外に解決法はない。自分で自分を愛することが、全ての人の課題である。

人は皆、見えないところで一生懸命頑張っていることを、お互いが理解し合うこと。すると、自分という存在はこの世でたったの一人ぼっちであるが、それは孤独とは違うことに気付くだろう。


④自分に自信がある、好きだから自慢をする場合

「この間行った店がすごくよかったんだ」「〇〇が得意だ、こんなことができるんだ」

思わず嬉しいことに遭遇したとき、自分だけが知っている自分の魅力を人にも見てもらいたいときのような、喜びから始まる自慢話は、果たして悪いことなのだろうか。受け取り方によっては傷つくこともあるけれど、これらの主な動機は喜びを共有したいというポジティブなものである。

自分を愛し、自己表現を楽しむことは素晴らしいことだ。店員が商品を薦めたり、特技を活かして仕事にすることと何も変わらない。それらは物とお金の交換であるが、自慢とは愛と愛の交換、プライスレスの商売なのだ。自慢(自分のいいところを人に見せること)や、好きだと思うものを表現することは、自分の愛し方という手本を相手に示し、同時に自分のは違う存在(相手)を認める、自分は唯一たる存在であることを認める愛を与えていると言えないだろうか。


人生は辛く苦しいものである。それぞれに試練や課題を乗り越えていくためには、励まし合える仲間が必要だ。

自分のその目で好きな物を追い、その口で夢を語ることは、自身にとっての希望を生きることであると共に、その姿が誰かにとっての希望にもなる。自分のために自分を動かせる人が、周りも幸せにできるのだ。

あんなことをしたよ、こんなことが出来るようになったよと、自慢をし合える関係こそ、仲間であると言えるだろう。



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