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犬が亡くなりました

10歳7ヶ月のラブラドール、メス。

今年の1月頃に右前脚の肩甲骨に骨肉腫を発症し、3月に発覚。闘病の末に2020年6月12日、7時22分に亡くなった。

死因は、癌による低血糖症と、全身転移による身体機能低下。最後の10時間くらいは、10~15分置きに低血糖症による痙攣(引きつけ)を起こし、とても苦しそうだった。

痙攣する体力すら無くなり、呼吸が停止した1.2分後に心機能停止。亡くなったあとの彼女(犬)はとても、安らかな顔をしていた。


犬が病気になってから、家族がひとつの目標を目指して繋がっていた。

今までに感じたことのない、強い絆と愛を感じた。

しかし、文字通り命を懸けなければ、家族でも所詮他人同士は繋がることができないのかと、人間の不甲斐なさに情けなくも感じたのだった。




①安楽死について

ラブラドールレトリバーは、0~8歳時点で癌の発症率が7.5%(全犬種のなかで3番目の高確率)、10歳以上の約半数が癌で亡くなるという、非常に癌になりやすい犬種である。

今年の3月頃に、急な体調の変化から癌が発覚し「余命1ヶ月です」と病院で宣告を受けた。

その時点で、「イギリスとかなら、今の時点で安楽死を選ぶこともありますよ」という話を医師から聞いた。(動くのを嫌がるけれど、普通に歩けて食べれる。痛み止めを飲めば難なく過ごせる状態)


私は、宣告を受けてすぐに安楽死の提案をした。

人間は自殺を選択することができるが、動物はできない。(人間に飼われているものはなおのこと)

だから、なるべく苦しみを少なくしてあげることも、人間の義務だと私は考えている。


しかし私の両親は拒否。

獣医師も、「若い人(20~30代)は選択される方が多いですが、ご両親のような40代以降の方は世代的なもので、自ら逝くことを望まれる方が多いようです」と話していた。


結果として、余命よりも2ヶ月以上長く生きてくれて、毎週末には公園に出かけて沢山の思い出をつくることができた。

けれど、苦しい時間も長く犬も人も夜眠れずに疲弊し、最後は癌の発作でほとんど意識もない中泡を吹いて痙攣して見るに堪えない状態を何十時間も見守って、犬も辛かったけれど、人間の心にも大きな傷を残すことになった。


なにをやってもエゴになるのなら、自分たち(人間)が一番楽な選択をしたほうがいい。

そう私は提案して、一時は両親もその方向で進めるつもりだった。しかし、「もしかしたら、あと少しでも意識のある状態で一緒に過ごせるかもしれないから」と、決断を伸ばして伸ばして、結局自ら逝くことになった。

命の選択に正解はない。

正解がないからこそ、悩むし苦しむものである。

正解がないからこそ、患者自身のためを考えるよりも、残された人がいかに納得できるかに焦点を置いたほうがいい。

だから、犬も人間も苦しむことになってしまったけれど、両親はきちんと見送れた、手を尽くせたことに納得した様子だったので、これでよかったと思う。



両親が安楽死を選択できなかった大きな理由のひとつに、日本での安楽死の難しさがある。

海外では、今までよく行った公園で遊んだあとに気持ちの良い木陰で逝かせてあげるとか、自宅で終わらせてあげられる国もある。

しかし日本では(少なくとも栃木県では)、法律の関係で病院内か駐車場の車内ででしか安楽死させることはできない。

最後に知らない場所で不安なまま逝かせるのは苦しいし、当事者(ペット)も満足に死ねないだろうという考えから、(少なくとも栃木県では)安楽死にさせる家庭はほぼ無いという。


今日火葬を行った葬儀社は、元々ペットと人どちらも行っていたが、ペットの方が忙しいために動物専門の葬儀社になったと話していた。

それだけ、ペットを家族として大事に扱う人が増えたということ。

これからもっと、動物を飼うこと、そして死ぬことが身近になり、安楽死についてもより深く考えられていくと思う。

今後の社会の動きに期待である。



②どこまでが犬(ペット)を見ているのか

火葬から帰ってきたとき、母の第一声が「これからはおかえりって迎えにきてくれないんだね。さびしいなぁ」だった。

我が家の犬は、家族の誰かが帰ってくると、いつもワンワンと吠えて大きく尻尾を振って迎えに来てくれていた。


母の言葉を聞いて思ったのが、どこまでが犬自身を見ていて、どこからが人間の欲求を見ているのかということである。

「迎えに来てくれる存在がいない←さびしい」というのは、すなわち我が家の犬だけにある魅力を指すのではなく、寂しさを癒してくれる都合のいい存在を見ているだけなのでは?とも捉えられると考えたのである。


ペット(動物)を飼う、という行為自体、人間の究極のエゴである。

それに犬は、社会的成功が云々とか、他者と比べることで見える魅力というのを感じる機会はほぼ無いので、ペットの魅力そのものが飼い主の欲求の延長線になりがちである。


そこで考えた見分けの方法とは、喪失後の対処の仕方である。

喪失、死別の悲しみは誰にでもある。

しかし、ペットロスに陥る人は、ペットに依存している。すなわち、ペット自身の魅力を失った痛みよりも、自分を癒す(心を埋める)存在を失った苦しみのほうが強い(ペットではなく欲求を満たす存在として見ていた)ということにならないだろうか。



③別れが辛いから飼わない?

「別れが辛いから(苦しむ姿を見たくないから)飼わない」と言う人が一定数いる。

そういう人も、ペット(動物のもつ魅力)そのものよりも、自分の欲求(寂しさ等を満たす)を通して動物を見ているのではないだろうか。 


別れが嫌だからペットを飼わない人は、もし子供時代に戻ったときに、卒業が辛いから学校に行かないという選択をするだろうか?

いずれ離れていくからという理由で、子供を産まない選択をするだろうか?

いずれ死ぬのだから、自分の人生も無意味だと言うのだろうか?

別れが辛いから飼わないというのは、生まれてくること自体を否定することにならないだろうか。


ペットに依存することは、わるいことではない。

そもそも、自立とは依存先を増やすこと、すなわちちょっとずつ色んなものに依存するということである。

ペットに依存気味な人も、別れを乗り越えることで少しずつ自立していくのだ。


痛み、苦しみ、悲しみは、成長なのだ。

生きること自体自己満足の世界ならば、苦しみを避けることよりも、いかに自分が満足できるかで選択するほうが納得のいく人生になるだろう。



今日、別れを経験してとても悲しかった。

気を抜くとすぐ涙がでてくるし、心が痛くてとても苦しい。

「また会えるよ」と声をかけてもらったが、もしも死んでから会うのではあと60年以上時間がかかるかもしれない。それほど長い間、失った痛みを抱え続けるのはとても苦しい。

それでも私は、ペット(犬)に出会えてよかった!

もしまた縁があれば、犬と共に生きる生活をしたいと思う。


エレナ(犬の名前)、本当にありがとう!!







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