人は助かるものではないし、助けられるものでもない

救済願望がある人は、深刻な劣等感を持っている。


「人という字は 支え合ってできている」と金八先生は言ったが、人という字は"立っている人を横から見た形"、 すなわち自立した人間を表している。

社会を成り立たせているのは、助け合いの精神ではなく自立した人間である。

自立した人間が柱となって、社会という家が建っている。一人一人が柱だからこそ、老若男女全ての命が、欠けてはならない大切なものである。もしも支えあいならば、少しのバランスで崩壊する。


メンヘラの友人が「お世話してくれる人がほしい」という基準で彼氏を選ぶので、最初は彼に尽くされているけれど、すぐに疲れて「こんなにしてあげたのに、あなたは変わってくれなかった」と言われて捨てられている。

彼らは「かわいそう」「助けてあげたい」と甘い言葉で寄ってくるが、自分の劣等感を癒す道具としか見ていないのである。



・既に救われている

南無阿弥陀仏を唱えなくても、高額なお布施をしなくても、人は既に救われている。


平等とは、ちがってもいいということである。

能力の高い人も低い人も、美しい人も醜い人も、貧乏な人も大金持ちも生きていていい。強いものが弱いものを食べてもいいし、弱いものが強いものを食べてもいい。それが平等である。

平等なこの世界では、既に誰もが救われている。

誰もが許されているのである。

既に救われているのに、一体何から助かるというのだろうか。



・助けを求める人は、エネルギーが枯渇している人

一人では生きていけないとか、助けてほしいと嘆く人は、エネルギーが枯渇している人である。


虐待や、やりたくないことにずっと耐えてきた。

苦しいのに、楽しいと思い込まないとやってこれなかった。

がんばってがんばって、エネルギーがすっからかんになったのが、助けて欲しい人である。

今はエネルギーが枯渇しているが、今まで耐えることができたのは、本来ならエネルギーの多い人だから。充電ができれば、誰よりも人生を楽しめる力を持っている。



・手助けとは、エネルギーを分け与えること

満たされている人は、誰かを助けようとは思わない。

自分の人生を生きているからである。


自分の人生を生きている人は、他人の人生に介入しない。

だれかを「助けたい」と思う人は、自分の人生を生きていない人である。


他人を助けることはできないが、手助けはできる。

手助けとは、エネルギーの足りない人に、余りを分けてあげることである。

自分が元気なときに、笑顔や優しさという形で分けてあげる。すると相手も、少しずつエネルギーが満たされていく。


「人でできた傷は人でしか癒せない」というが、こころのエネルギーの枯渇は心の触れ合いでしか癒せない。

体の疲れを睡眠で癒すようなものである。


自己犠牲は、相手だけではなく、自分にも傷をつくるものである。

もしも傍に助けを求める人がいたら、自分が疲れているときは会わない。元気なときにだけそばにいてあげることだ。




・終わりに

彼氏に捨てられたばかりのメンヘラの友人に、上記のような話をした。

すると彼女は、「そういえば一体、自分は何から救われたいんだろう」驚いていた。

これだけで、この気付きが私は嬉しい。

今日もいい日だ。










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