他人の才能に嫉妬して狂いそうになるときがある

他人の才能に嫉妬して狂いそうになるときがある。

普段生活している分には、どこの誰に対しても何も思うことはない。しかし、ふとした時、張りつめていた糸が切れた時、自分を守っている何かが外れたとき、突然他人の優れた点が目について激しい怒りがドカッと湧いてくるのである。

猛烈な憎しみ、嫉妬。なぜ相手にはそれがあって、なぜ私にはないのかと考え始め、相手を蹴落としたい、立ち直れなくなるまで酷い言葉を投げかけたいという気持ちが湧いてくる。そして今度は、私を見てほしい、優越したい、私に価値を見出して褒め称え、嫉妬で狂ってほしいと相手に願うのである。

しかし、実際に相手を傷つけるようなことはしない。すぐにはっと我に帰り、一瞬でもそんなことを考えた自分を恥ずかしいと感じ、怒りを通り越して自分に呆れるのがいつものルーティンである。



①嫉妬とは何か

嫉妬(しっと、英: Jealousy)とは、三者関係において、自分自身が愛する人が、別の人に心を寄せることを怖れ、その人をねたみ憎む感情である。(Wikipediaより参照)
羨望(せんぼう、英: envy ラテン語: invidia)とは、自らの持たない優れた特質、業績、財産などを他者が持つときに起こる、それらへの渇望、ないしは対象がそれらを失うことへの願望である[1]。羨望は他者が自分が持たない望ましい物品を持つときに、自己肯定感の低下という感情的な苦痛として現れる場合がある。

一般的に嫉妬と羨望は同じような意味を持つ言葉であるとされているが、心理学的には異なる2つの感情である。これらが混合されていった理由として、仏教における「嫉」という概念が影響しているのではと個人的に考えている。


他人の才能を羨み、それを欲し、そして自己肯定感が下がるという点において、これを正しく表現するならば「羨望」だと言うほうが望ましいだろう。

しかし、世間の認識や表現のしやすさなどの理由から、今回は便宜上「羨望=嫉妬」だとして表現することにする。


羨望と嫉妬については、詳しくはWikipediaにこれ以上ないくらい簡潔にまとめられているので、そちらを参照して頂きたい。




②嫉妬の原因

嫉妬が起こる主な原因として、他者との同一視がある(と私は考えている)。

他人に嫉妬するとき、まず同一視(自分と他人の混合)があり、しかしそれによって自身の劣等性が際立つ(自己肯定感が下がる)から、怒りが湧き感情的な苦痛を感じるのである。


同一視とは、他のものと、自分とを、同じものと考え、そのことによって、優越感や安定感をえようとすることである。自我が発達してきた思春期に、親や友人や教師などと同一視をすることで人格や超自我(良心)が形成されていく、正常な発達過程において重要な役割を持つものである。また精神分析においては、欲求不満(フラストレーション)や葛藤に対処しようとする防衛機制(適応機制)の一種であり、同一視は成熟した防衛であるとされる。

好きな人や優れた人と同じ服装をしたり真似をすることも、他人の優れた特質や財産などを渇望したり相手がそれを失うことを望むことも、どちらも同じ同一視であるが、前者は同一視の前段階である取り入れ(他者を断片的に取り入れること)に近いのに対して、後者は他者と自分とをそっくり重ねている(同一視)ことから、後者のほうがより発達した反応であるといえるだろう。



③嫉妬は幼稚なのか?

嫉妬の最たる特徴、それは「相手を負かしたい」、下に見ている、つまり勝てない相手にはしないということである。

しかしそれは、相手はそんなことを気にもとめないのに、まるで自分だけが勝ち負けに拘っているかのような、自身が未熟で幼稚であるという事実を示していて、まる相手に投げようとしたパイを、誤って滑って転んで自分の顔に叩きつけていたような、そしてそれを相手に嘲笑われたかのような屈辱的な気持ちにさせるのである。


しかし、ここで嫉妬と憧れの違いについて考えてみる。

どちらも自分にない要素を持っているという点ではおなじだが、憧れは、自分の手に届かない、夢を描くようなファンタジックな感情であるのに対して、嫉妬は地に足の着いた現実的な感情である。

BLEACHというマンガの登場人物が、「憧れとは理解から最も遠い感情だよ」と言っていたが、嫉妬とはその逆で、相手の理解に最も近いものなのではないだろうか。



④嫉妬は大人の嗜みである

そもそも、大人と子どもの違いとはなんだろうか。

人はある日突然、何かががらりと変わるわけではない。20歳を境に、突然何かが成熟するわけでもない。今も昔も自分は何も変わっていないのに、なんとなくつまらない人間になった、つまらない人生だと感じる人は多いのではないだろうか。

太宰治は「大人とは裏切られた青年の姿である」と言ったそうだが、それはつまり本質は同じだけれど、傷ついて閉じこもる(守る)ようになった、心の鎧を手に入れたというふうに捉えられるのではないだろうか。


子どもの頃は、空を眺めているだけでも楽しめた。雲の形から色々なものを想像したり、宇宙や地球の果てを冒険した気になってワクワクしたものである。

しかし大人になると、新しい場所へ行っても子どもの頃よりは感動しないし、全てが当たり前になってワクワクするようなことは減り、知らないことにもなんとなくの想像がついてしまう。感受性が鈍感になるのである。

しかし、子どもは無知故にファンタジックな捉え方をするのに対して、大人は大人であるが故に、知識や経験という武器を獲得し鈍感になるのだ。

子ども心を忘れないこと、童心に帰ることだけが良いのではなく、大人には大人の楽しみ方がある。子どもは外の世界(自分以外)に対して様々なもの(喜び、楽しみ)を求めるが、心の鎧を手に入れた大人は、それで大切なものを守るために使わなければならない。つまり自分の内側に様々なものを見出していくことが、大人ならではの人生の楽しみ方ではないだろうか。


ここで嫉妬について話を戻そう。

嫉妬は勝てない相手ににはしない、敵わないなら嫉妬しないものである。

それはつまり、それだけの同じ魅力、あるいはちがう魅力を自分が持っている。鏡に写った自分自分が、嫉妬の正体であり、自分の内側に持つ魅力に気付くための鏡が、嫉妬なのではないだろうか。



③幸せの数だけ不幸を背負わなくてはならない

人は、自分だけが得をしたり、自分だけが幸せになることはできないものである。明るい未来を生きる、自分自身が光になる、ポジティブであるためには、同じだけのネガティブを背負わなくてはならない。

筋肉をつけるためには筋トレ(自分を痛めつけ)をしなくてはならないし、何かを上手くなるためには練習をしなくてはならない。同じように、幸せであるためには、それだけの苦しみ(不幸)を経験しなくてはならないのだ。

幸せとは、何らかの成功や得をすることではなく、気付くことである。そして不幸とは、幸せを受け入れるための器を育てること、練習(経験)だったのだ。

嫉妬という負の感情もまた必要なものであり、それを背負う数だけ人は成長できるのではないだろうか。


だから、嫌いな自分も、醜い自分も、どんな負の側面も、拒否したり、捨てようとする必要はない。そしてそれは、人生において苦しみや悲しみは決して避けることができないということでもある。

もしもこれから、何らかの負の事象(ネガティブ)に直面したときは、その分だけ「自分には幸せを手にする権利がある」と考えてみるといい。

それは、自分の器を広げることでもあるし、与えた分だけうけとらなくてはならないというギブアンドテイクの法則よろしく、背負った悲しみだけ幸せを受け入れることもあなた自身の使命でもあるのだから。



④他人のために活かせるように

嫉妬は、原始的な悪性の攻撃欲求であるが、自分の中の良さに気付くための行為でもあり、相手以上に相手の良さに気付く行為でもある。

大人が人生を楽しむためには、自分の内側に様々な価値を見出していくことが必要であるが、それは自分自身の内面だけでなく、他者との精神的な繋がり(物や行為の反対)を深めることも重要としているのではないだろうか。

つまり大人は、何をしてもらったか、相手が何であるか以上に、相手がありのままであることを認める行為、励まし応援するという行為に価値を見出す必要があるのではないかということだ。


だから、嫉妬した相手にこそ「あなたはすばらしい」と言うべき(だと私は思う)なのだが、本来の悪性の攻撃欲求をどう昇華すればいいか。

まず、相手を攻撃しないためには、相手を自分の一部だと思ってしまうことである。相手を自分の手足のように利用するということではなく、自分のことと同じように大事にするということ。結果としてそれは、自分自身を認めてあげることになる。

次に、夜寝る前に今日の自分を褒めてあげるかのように、相手のことを褒め、励まし、応援するのである。他人を励まし、応援すること、これもまた、自分自身を励まし、応援するということでもあるのだ。



⑤まとめ

嫉妬とは、成熟した人間にしかできない高レベルな感情であり、大人の嗜みであるともいえる。

「なんであの人が」や「負かしてやりたい」という風に感じるのは、無意識で敵わない相手ではないと気付いているからであり、つまり気付かないだけで相応の魅力や実力を自分も持っているということである。

嫉妬に苛まれたときは、無料のエステやジムに行けたくらいの気持ちで、「ありがたやー」と思っておくとよい。




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