スピリチュアルについて考える

友人が身ごもったと聞いて、近所の安産にまつわる神社へ行ってきた。

神前でどう祈ろうか延々と悩んだ末に、「今度こそ、最大の気付きと幸福に恵まれますように」と祈った。これが私の祝福の仕方であり、同じ限りある命を生きるものとしての励ましである。

同時に、「私の人生もこれで終わらせるぞ」と再び決意が固まった。社会や環境などに囚われず、今のままありのままで幸せなることに尽力するという意味である。

由来はやはり、仏教の輪廻転生の考え方から来ているのだが、魂はあるのか、輪廻はあるのかなどはさておき、スポーツでも学問でも同じことを何度も繰り返して学んでいくように、生き方というのも繰り返すことで学んでいるのだろうという体感があったためだ。


さて、輪廻転生を終える、生まれることがなくなり死ぬことがなくなると、魂は一体どうなるのか。

別の何かになるのか、それとも苦しみも喜びもない完全な死(消滅)を迎えるのか。完全に死ぬということが、はじめから無かったのと等しい状態になるのだとしたら、救いがないなぁと思い、師と仰いでいる占い師の方に話を聞いた。

「人から守護霊になり、神になる。肉体という器を無くしてからも、まだまだ勉強のようです」

という話だったが、理解が及ばす「???」となった。私は魂がどうとか神がどうとかと言ったりするものの、自分で見たもの感じたものしか信じないので、いくら師匠のように敬っていても、そのようなスピリチュアル色の強い話を手放しに信じることはできない。

特に守護霊については、「人が都合よく見出した助けてくれる存在」みたいな偏見が強いので、まずスピリチュアルとは何かについて考えてみる。


スピリチュアルは存在するか

英語のスピリチュアル(英: spiritual)は、ラテン語の spiritusに由来するキリスト教用語で、霊的であること、霊魂に関するさま[1]。英語では、宗教的・精神的な物事、教会に関する事柄、または、神の、聖霊の、霊の、魂の、精神の、超自然的な、神聖な、教会の、などを意味する宗教形態[2]。(Wikipediaより抜粋)

結論から言うと、私の考えは「あるけど、ない」である。


魂はある、霊はいる、死後の世界はある云々について、生き物が仕組みを理解せずとも呼吸したり排泄ができるように、理解できないし意識できなくてもそれらの存在を肯定的に考えている。

しかし私には霊感がないので、視ることも感じることもできない。だから、第三者に問われたときそれらは「ない」と言わざるを得ない。

たとえば、「○○さんがあるって言ったからあるよ」と言ってしまうのは無責任だし、逆に「視えないし感じないけどあるよ」と言うのは、根拠に乏しく嘘つきになりかねない。

だから私の答えは、「あるけど、ない」のである。



・スピリチュアルとはなにか

日本では、主に占い、ヒーリング、霊、宗教などがあげられ、魂の、精神的な、霊的な、といった意味合いで使われる。そしてそれらは、一部の新興宗教や犯罪の影響により、非科学的なもの、洗脳や正常ではない考え方という偏見も多いと思われる。ビジネスサロンや芸能人のオンラインサロンなども、思考の偏りなどから宗教的スピリチュアル的と揶揄されることもある。

スピリチュアルの語源であるスピリットは、ラテン語のspiritusに由来し、ラテン語がキリスト教の公用語であることからも分かるように、キリスト教での表現から始まっている。

スピリットには、キリスト教での霊、霊魂などの意味以外に、「精神、情熱、根性」「本質、意味、意図」というような意味がこめられている。


私は一応、スピリチュアルに対して否定的ではないけれど、かといって肯定的でもないという立場をとっている。

自分が問題として直面しているけれど形の無いものに対する表現として、仏教やキリスト教などの言葉を借りてみたり、神社などのそこで育まれた歴史への敬意として手を合わせたりはするけれど、全ては理想や空想を一切排除し現実に即した考えのもとに選んでいる。

だから、波動、オーラ、ツインソウル、運気のあがるブレスレットみたいなものとか、福の神貧乏神、疫病退散の神などといったものは苦手である。

それらは確かに、あると思っている人がいるからあるのだろうけれど、我欲の入った神やその信仰は、(自分たちが条件をつけているから)無条件の愛ではないし、スピリット(本質)からは外れていっているのではないか。もしも本当に神がいるのなら、果たして条件付きの愛を喜ぶのだろうか。


さて、私が師と仰いでいる占い師の方の話に戻してみる。

「守護霊だとか、神だとか、そんなの分からないし信じられません」と素直に言ってみたところ、こんな返事を頂いた。

「私は、スピリチュアルは価値観のひとつ、生き方のひとつだと考えています。好き嫌いで判断されていいと思いますよ」


"我"がある限り、仕事、趣味、人間関係など、全てに合う合わないもの、好きなもの嫌いなものがでてくるように、スピリチュアルについてもその中のいいものだけを選んでいいということである。

合わないもの、嫌いなものは、素直に離れる、手放すことが相手を尊ぶということでもある。



・スピリチュアルとの付き合い方

私は、スピリチュアルは欲を叶えるためのものではなく、己を知るための「学問」のひとつだと考えている。

国語や数学といった学問も、占いや宗教なども、全てはひとつの「真理」から始まっているのではないか。

日本は多宗教だの無宗教だのと色々言われたり、宗教に入ると多額のお布施が必要だったりひとつの神しか信じちゃいけないとか色々あるがそういった形に囚われず、ビュッフェレストランのように多くの人が簡単にいいものだけを選べるようになったらいいなと思う。

それは、お正月に神社へ行きクリスマスにチキンを食べるとかそういう話ではなく、自分の人生は自分で決める、誰かに言われるがまま昨日おとといと同じままではない、自分の人生は自分で切り開いていくということに繋がっていく。


「真理」の追求のために、学問や宗教や占いなどがつくられていったわけだけれども、そういった「形」に囚われないこと、つまり「自分らしく生きる」ということが真理なのではないだろうか。



















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