スピリチュアルについて

最近、会う人会う人にスピリチュアルについてベラベラ話してしまうので、改めてスピリチュアルとはなにかを考えて見たいと思う。

独自の解釈も多分に含まれるため、異なる意見を持つ人も多いと思われる。しかしこれを無理に受け入れる必要はないし、どんなに立派な人が言っていることもただの意見のひとつでしかない。それぞれが納得できる自分だけの哲学を見つけなさいと、スピリチュアル的な教えも言っているので、これが各々の自分哲学を見つけるきっかけになれば幸いである。



・スピリチュアルとはなにか

スピリチュアルとは、生き方のひとつである。

正しい、間違いはなく、10人いれば10通りの人生があるように、スピリチュアル自体も何通りもの考え方があり、教えを信じないからといって地獄に落ちるわけでもなく、信じたからといって救われるものでもない。

霊、神、宇宙など、目では見えないもの、生きている間には決して知ることができないものというような、扱っているもののその曖昧さ故に「フワフワしたやさしい世界」だと思われがちだが、決してそんなことはなくむしろ我々が普段用いている地球の時間や社会的な概念などは全く通用しないため、時に生きた人間よりも残酷だと思える一面もある。

結局、自分を幸せにできるのは自分だけということ。自分を信じられないときに、代わりに自分を信じてくれる存在がスピリチュアルである。信じて、努力することで、人は初めて幸せになれるのだ。



・スピリチュアルとの出会い

私は、霊的な価値観、地球だけではなく宇宙からみた人間の存在意義などについて、昔から信じていた訳ではない。むしろ「神は妄想である」と、人間は宇宙のはじまりを理解できるし全てを創造することが可能であると、科学主義的な姿勢をとっていた。

ませたクソガキだったため、小学生の頃から哲学書を読み言語によってあらゆる事象を証明できるという万能感を抱いてきたが、思春期に入り多くの人々が通るであろう人生の理不尽さへの絶望と挫折、無力感を経験し、言葉や数式では証明できない何か圧倒的な存在があるということを直感した。

そこで同時に、言語には普遍性がないから、言語を使って思考する以上真理には到達できないという哲学終焉を目の当たりにし、スピリチュアル(霊的哲学)への道へと足を踏み入れるのである。



・スピリチュアルの教え

ここで、スピリチュアルが教える最も基本的な考え方について語りたいと思う。

ひとつ、人は基本的に「自分自身を罰する、自分自身を虐待して生きている」という事実である。

基本的に、他人や出来事があなたを傷つけることはできない。傷つくとは、あなたがその出来事を利用して自分を虐待しているということ。逆にいえば、あらゆる行為も他人を傷つけることはできない。相手が傷ついたのだとしたら、それは相手の問題ということである。

スピリチュアルは、自分を罰することを辞める、自分自身と親友になる生き方を教えている。


ふたつ、全ては「経験であり過程」であるということである。

過去にあったことを思い出して、自分や相手を責める。生まれや育ち、あの時の失敗があったから自分はもうダメだと人生を投げ出してしまう人がとても多い。そこまでではなくても、夜寝る前に思い出して苦しんだり、楽しいことをしながらも不安や悩みが離れないという人は多いのではないだろうか。

失敗は失敗ではなく、経験であり過程だということ。そして痛みは成長の証なのだと。だから痛み(未来、経験)に怯える必要はないし、どれもそれが人生の全てではない。自分自身を通して考えるだけではなく、世界や宇宙全体からみた自分で調和(バランス)のとれた生き方を心がけなさいと説いている。


みっつ、「戦いをやめなさい」ということである。

正しい間違い、優劣や良い悪い。自分が優れていると証明しようとする、他人に分かってもらおうとすることも、要は他人のありのままを認めていない、戦いを挑むのと同じことだと説いている。

自分が自分の親友となり、自分さえ分かっていればいい。それに、宇宙は今のありのままのあなたを愛している。

戦いをやめると、あらゆる摩擦がなくなり、地球全体がひとつの家族として機能するようになる。そして、スピリチュアル(霊的存在)は我々がひとつになることを願っているということだ。



・言葉の存在意義

スピリチュアルの教えのひとつとして、「頭(脳)で考えることをやめなさい」「直感とフィーリング(感覚)を信じなさい」というものがある。

我々が普段考えていること、あれが必要、これが欲しい、これが私だと思っているものは全て本当の自分ではない。本当の自分とは、直感と感覚だけだということである。それに、考えたってどうしようもないこともあるのだから、「理解する、理屈をつける(言葉にしようとする)、理由を知ろうとする(脳で考える)」のをやめて、あるがままに身を任せなさいというのである。

私はスピリチュアル的な生き方を学び、直感とフィーリングにフォーカスするうちに、「文章で何かを表現しようとることって意味があるのか?」という作家志望としてのアイデンティティへの疑念と、そもそも言葉が浮かばなくなってくるという問題が発生し、言葉の存在意義そのものに疑問を抱くようになった。


しかし、教えのひとつにこういうものもある。「必要なかったらない、必要だからあるのだ」と。

辛い経験も必要だからあるのだし、言葉も必要だから存在している。そしてここで、私はニーチェの「神は死んだ」の本当の意味に気付いたのである。

「神は死んだ」には、ふたつの意味がある。ひとつは、「キリスト教の信仰は信ずるに値しない」、つまりいかにして生きるべきかという視点が固定された人々に対し、自分に誠実になり、強い精神をもって積極的に生きる(自分らしく生きる)べきだということ。もうひとつは、「絶対的な視点は存在しない」、つまり真理を追いかけてもそれに到達することは不可能だということである。

仏教では、完全なる悟りはブッダ以外は生きているうちには到達できないとされており、悟りも四つの段階へと分けられている。

同じように、言葉を使っても、言葉以外(テレパシーなどの霊的なコミュニケーション)でも、生きているうちに真理に到達しようとするのは馬鹿げているということだ。パンセは人を「考える葦」だと言ったが、霊的な知覚ばかりに比重を置いて、考えることを諦めてしまう、言葉による可能性を手放してしまうのはアホである。全てはバランス、バランスと調和である。

動物は話さなくても生きているが、それなら何故人だけが思考と言葉を手にしたのか。武器にもなり防具にもなる、言葉をいかに使うかということが、人間に与えられた課題なのかもしれない

せっかく手に入れた言葉だから、どうせならそれを愛するために使いたい。言葉の力を信じていれば、いつかまた我々はバベルの塔を完成させられるのかもしれない。




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