16歳、夏
左手に富士、右手に駿河湾を抱える海辺の道を、女子中高生たちが自転車で走っている。
静岡県静岡市、金魚のへそ辺りにあるこの国道150号線は、寮から校舎へ移動する通学路であり、唯一の自由な時間でもある。
色気のないジャージ、潮風で錆びた自転車、長髪は無造作に束ねられ青春とは程遠い彼女らであったが、艶のある黒髪と透けるような白い柔肌が若さを物語っている。しかし、7月下旬の陽射しと潮の気は、その僅かな美を静かに侵食しているのだった。
太平洋の風は、富士に挑むが如く強く、海水は浜を埋めるテトラポットに叩きつけられ、四線の車道を超え雫がキラキラと歩道に降り注いでいる。
そのハイライトに目を霞ませながら、私は先輩の背中を追って自転車を漕いでいた。
娑婆を離れてから、もう一年近く経つ。
テレビもネットも本もなく、学校と寮以外にはどこにも行けなくて、遠くの公園から聞こえる子供の笑い声と、時節によって色を変えるこの大海だけが世俗の流れを語っている。
ふと前を走る短髪の先輩の首元を見ると、疱瘡のように汗が湧いて産毛がべったりと張り付いていた。
今すぐこの背中を蹴飛ばしてどこかへ行きたかったが、思うだけで行動はしない。行くあてもなく、警察に捕まって戻されてきた先人を幾人も見てきたからだ。
しかし今日がいつもと違うのは、夏休みが始まるということである。
昼前には各々の親が迎えにきて、校長との面談の後に家に連れて帰られる。休みは短く、一週間経つともう正月まで帰れない。
同輩らはそわそわわくわくとした表情をしているが、みんなこの学園の束縛が苦しいあまり、親に捨てられてここに来たことを忘れている。
校舎に着いて、掃除、朝礼、勉学を済まし、毎週金曜日恒例のカレーをみんなでつくっていると、続々と車が前に止まり、親達がやってきた。
彼らにカレーを振る舞い、生徒らも食事を済ますと、次々と面談が始まった。
待っている間、子供たちは何をして何を食べたいか語り目を輝かせていたが、その目には不安と恐怖も混じっている。家に帰れば、その地に眠るトラウマとも向き合わねばならないからである。
笑顔で手を振る同輩らを見送るうち、気付けば夕刻になり残るのは私だけになっていた。
校長が私の前の人を見送ると、「お前は一番手がかかるから最後な」と言いながら、面談室へと手招きをしてきた。
面談では、私の世話がいかに大変かを親に伝え、ゲーム禁止テレビ禁止ネット禁止、云々に気をつけて過ごすようにと注意を受けた。
そして面談が終わり、校舎を出ようとしたとき校長は言った。
「お前のようなやつを面倒みてくれるのは俺だけだし、分かってやれるのも俺だけだからな」
ニコニコと満足そうな表情である。
お前に私の何が分かるんだと、糖尿病で浮腫んだその老肌を叩きたかったが、「行って参ります」とだけ答えて車に向かった。
車の中ではギスギスとした空気が流れ、両親は腫れ物を扱うように私に接してきた。
私がどこに行きたいとも、何をしたいとも言わないので「せっかく静岡に来たのだから、一周して帰ろうか」と美保のほうをドライブすることになった。
誰も喋らず、七人乗りのそこそこ狭い車内は針のような糸が張っている。黄昏時の外は、建物の黒い影を残しながら真っ赤に染まっていた。
美保の工業地帯、巨大クレーンがいくつも並ぶ海商の通りに差し掛かったときである。
ラジオから、ある音楽が流れてきた。
『.......さて次は、今話題の「君の名は」!大ヒット上映中の.............では.......ミュージックスタート♪』
「君の名は」のスパークルという曲だった。
何故か分からないけれど、とても胸に刺さって気付けば涙がこぼれていた。
自分は今みたいに、これからもずっと誰かの中で囚われ続けて自由を浴びること無く死ぬのだと思っていた。人との心の触れ合いもなく、動物や植物にすら相手にされず孤独に死ぬのだと思っていた。
しかし、この曲のなかでいつの間にか、僅かなぬくもりと希望を見出していたのである。
いつか、自由になってやる。
絶対に、自分の人生を生きてやる。
車窓を流れるクレーンはまるで、アフリカを股に掛ける麒麟のようだった。
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