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人生は平等なのだろうか

生まれが違えば育ちも違う。

貧乏な人がいて、お金持ちな人がいて。才能がある人がいて、普通のことすらできない人がいる。

何事もなくスラスラと生きていける人がいれば、挫折を何度も味わう人がいる。

生きたいと願いながら死んでいく人がいて、死にたいと思いながら生き続ける人がいる。

この世界は平等なのだろうか?



小さい頃、「アフリカでは飢えに苦しむ子どもがいるんだから、残さず食べなさい」と言われたことはないだろうか。

こちらは好きで日本に産まれたわけではないのに、どうして知らない国と比べるの?欲しいと願って今の環境がある訳ではないのに、どうして感謝を強要するの?

と当時は思ったものである。

 

また、「中東では戦争に怯えながら、生きるだけで精一杯な子どもがいるのだから、日本に感謝して勉強しなさい」とも言われたことがある。

勉強をすることが正しい人生で、中東の人は間違った人生だとでも言うのだろうか?


日本の小中高校は大学に行くために勉強をし、大学受験で人生が決まってしまう。

自分も18歳で失敗したら、取り返しのつかないような社会に見えていたが、それは全員が同じゴールを目指しているからである。


アフリカや中東の子どもと比べることだって、子どもだからと一括りに考えてしまうから、ややこしいことになる。

大学、と一括りにするから「失敗や成功」だの「合格や不合格」だのとややこしくなるのである。

生まれや環境が違ったり、得意不得意も人生そのものもみんな違うから、本来は比べることなどできないのに。



以前も話したことがあるが、私は中卒である。

ずっと大学に行くのが普通な世界で生きてきたから、高校を中退したとき「私の人生はもう終わった」と絶望した。

それからフリーターとして生き始めたのだが、どうだろう。今までにない幸せが私を待っていたのだ。


私が働いているところは、行く所皆フリーターが多かった。

同じように高校を中退している人もいれば、大卒で起業したけど失敗したからいるという人もいた。

そういう人は、"おかしい人"とか"かわいそうな人"というように特別視しない。変わらず、自分と同じように接してくれる。

今の自分でも仕事さえやればいいのだから、背伸びをしなくていい。「ありのままの自分」を受け入れてくれる世界が、そこにはあった。

そして気付いたのだ。

「あれ?人生って、大学に行かなくても色々な道があるのでは?」と。



そう、

平等とは

違ってもいいということ

なのである。

こういう人がいれば、ああいう人もいる。

大学に行く人がいれば行かない人がいるし、日本に産まれる人がいれば中東に生まれる人もいる。

確かに、大学に行った人が見る景色は行かなかった人には見えないかもしれないが、それは逆も同じなのだ。そして幸せは、誰かが決めることではない。

日本で豊かに暮らしていても不幸な人はいるし、アフリカで貧しくても幸せな人もいる。

幸せとは、自らの感じ方で、自らが決めるものなのだ。


環境や持っている物が違っても、誰もが持っている同じものもある。

それは「生と死」だ。

生まれてすぐに死ぬ人もいるし、百ウン十歳まで生きる人もいるけれど、この世に生を受けることと死が訪れることは誰にも等しく存在する。

今、命があるうちに、我々は幸せを掴むのだ。



人生は自分のものだ。

他人の物差しや社会は関係ない。

幸せになりたいのなら、足りないものを欲しいと願うよりも、今あるものに満足する力を手に入れなければならない。

小さい頃は、自分は何でもできるような気がしていたのではないか。

しかし大人になって、自分は薄汚れて何も持たない人間だと気付いたかもしれない。

しかし、そんな今の自分をあるがままに受けとめて、さらに愛おしむとき、今までとは違う暖かい光に包まれるのである。


もしも今、劣等感や孤独に悩まされている人がいるのならば言いたい。

今まで、親や学校や友だちの価値観でつくられた社会で、あなたは生きてきた。

それを捨てる勇気を、今、自分のために使うときである。




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