働いて寝るだけ

「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」

と詠んだ石川啄木は、実際は仕事はすぐ辞めるし家庭を顧みず借金を踏み倒し遊び呆けていたらしい。


私は仕事はすぐ辞めるが、間を開けず遊ばずに働き、最低賃金フルタイム、手取り約200万円のワーキングプアとして慎ましく暮らしている。

ホームレス一歩手前の綱渡り状態が続いているが、残業はほとんどないし、自分に合った仕事をしてストレスを溜め込まずにすんでいるのでそこそこ幸せである。


しかし今年の始めに、長い付き合いのあった友人三人が、三人とも障害者年金や生活保護を受給しながら心穏やかに暮らしていることを偶然知ってしまい、働くことの意味を考えるようになった。

友人らとは精神科に入院した頃に知り合い、泣きながら肩を叩き励ましあった仲である。しかし退院してからというもの、彼女らは男遊びと美容のための借金をするようになり、今はみんなの税金で遊んでいるという話である。

今までは、不満どころか手放しで喜びながら働いていた私だが、それを聞いて心に大きな穴があいて、働くのが苦しいと感じるようになった。


・ワープアの不満と憤り

毎日ご飯が食べられて、安心して寝られる住まいがある。それはとても素晴らしいことである。

でも、幸せなことなのに「それだけ?」と思ってしまう。

ワーキングプアとは、すなわち生活保護より手取りが低い人のことである。苦しんで働いても、食べて寝ることしかできない。それならば、働かずに公園で寝起きする生活と何が違うのかと思ってしまう。生活保護以下の生活なのに、わざわざ苦しむことをするメリットはなんなのかと思ってしまう。


寝る間も惜しんで働くというわけではないので、自分のための時間はある、嬉しいことだ。でも、時間があるからといって、なにかできるわけではない。

休みの日は、お金のかからない趣味として公園で寝転がり空を眺めたりするけれど、「それだけ」である。

労働の最大の恩恵とは社会との繋がりが得られることだと言うけれど、休日でさえこんな感じで、仕事も人と全く関わらず挨拶もしないような環境なので、社会との繋がりなんて微塵も感じられない。

働きたいのに「使えないからいらない」と言われるよりも、働きたくないけど働ける場所があるというのは、とてもありがたいことだと思う。でもありがたいと思えない。


・幸せにはなれない

仕事自体は、それなりに楽しい。やりがいも見出して、自分なりに工夫して努力できるのは幸せなことだ。

でも、過労死ラインまで働いていたときは「死んでいるのと同じだ」と感じていたが、のんびり働いている今は「生きていない」と感じてしまう。

働いて、食べて寝ることしかできないし、働くのを頑張っても給料が増える訳では無いから貯金して○○しようみたいな目標が湧かないし、物欲やその他の欲求もほとんどないので、まさに働くために生きている状態である。

働くためだけに生きて、自分がない主体性がないから、「なんのために生きてるの?」と思う。

お金にはそれなりに困っているけれど、お金よりも仕事のやりがいよりも、人生に意味が欲しい。


今日もそれなりに幸せだ。幸せだけれど、明日も明後日も何十年後もずっと変わらずに、同じように幸せなのだろうと感じることに絶望するのだ。

一人で頑張って、やれるところまでやった。

自分のやりたいこと、自分に合うことを探し、答えをみつけた。その結果、幸せのレベルが打ち止めになってしまったのだ。一人で叶えられる幸せの限界が、広がっていく世界の端が見えてしまったのだ。

もしもこれを変えようとするならば、結婚するとか、才能を認められるとか、「他人」を介してでしかより幸せにはなれないということ。自分にできることはこれ以上何も無い、と感じるがために「じゃあ今日死んでも変わらないじゃないか」と思ってしまう。

叶えられる幸せに限界があるのなら、じゃあ今まで頑張ったり挑戦したことの意味はなんだったのか。西へ東へと泳いでいるのではなく、結局池の中でもがいていただけだったのではという無力感。


人間という生き物は、幸せにはなれない。

幸せを求める生き物だから。

求め続けた先には、一体何があるというのだろうか。


・自分の人生に納得し、受け入れるために

「働くために生きている」と不満を感じるのは、つまり納得していないということでもある。

なんで納得できないのか、どうしたら納得できるか、いつも人生相談をしているある方に尋ねたところ、

「答えはシンプルです。それ、をする自分を好きでいられるかどうか」

「自分の行動、思考。これに納得できるかどうか。しっかり自分と会話をなさるのです」


それに、納得には時間がかかる時もありますから、焦らずにですよ、と言われた。

その話を聞いても、今はまだ納得できなかった。

しかし人生は長い。人は、自分の人生に納得するために寿命が伸びていったのかもしれないし、頭が白くなる頃には答えが見つかっているといいやぐらいに思うことにする。


ただ、それを聞いて思ったのは、人間というのは陶器と似ているなということだ。

大人になるとどんどん頑固になって、頭も人生の幅も狭くなっていくけれど、大人になると変われなくなるのではなく、形を整えている過程なのだということ。

子供の頃が土を練る過程で、大人は成形する段階。人生が本当に始まるのは、大人になってからなのではないだろうか。

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