愛について考える

求める愛、与える愛、条件付きの愛、無償の愛。この世には様々な愛の形が存在しているが、その多くは自己愛との戦いでもあるのではないだろうか。

古代ギリシアでは愛は四つの概念で考えられていた。

エロス(eros) 男女の恋愛
フィリア(philia) 友人との友愛
ストルゲー(storge) 親子や兄弟との家族愛
アガペー(agape) 神の無限なる無償の愛

エロスは由来である恋愛の女神エロースから、一般的には男女の間の愛をさすが、プラトン哲学においてそれは神やイデア界といった完全な存在、完全な知のあり方に憧れを抱き、そこに合一していこうとする(欠けているものを補い合おうとする)人間から神への愛であり、自らの精神を限りなく向上させようと努力する魂のあり方であるとされる。


今回は、全ての愛に共通する事項、愛の根源について考えていく。



・無償の愛の誤解

本題に入る前に、無償の愛(アガペー)に関する誤解について考えていきたいと思う。


アガペーは元々、ストルゲーと共に家族愛をさす概念であったと考えられている。しかし古代ローマにおいてキリスト教が広く信仰していくにつれ、神の子である人間全てに対する愛、親が子を愛するように深く思いやる神の無限の愛を表す概念として捉え直されていった。

神が人間を愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので「無償の愛」「自己犠牲的な愛」とされる。



現代において、人間関係はギブアンドテイクで成立しているため、無償の愛は存在しないという価値観が一部の人の中で存在している。

「愛されるためには、他より秀でた部分がなくてはならない」「私は価値のない人間なのに、なぜ仲良くしてくれるのか」「嫌いな人、憎い部分まで愛せるわけがない」などと彼らは言うのである。

無償の愛が存在しないと考えられる理由について、三つの誤解があると私は考えている。


ひとつは、人間には限界があるという点である。我が身を犠牲にして尽くすこと(献身)と誤解した人たちが、求められるがままに相手の言いなりになったり、食べ物やプレゼントを貢いだり、自分の時間や健康を犠牲にすることで、自ら自分を不幸にしている。無償の愛ならば、無償の愛とは自分の中から湯水の如く無限に湧くものであると勘違いしているのである。

しかし、命に限りがあるように、時間・健康・お金、その他全てにおいて人には限界がある。募金やボランティアだったり、恋人などへの愛だったり、道端で困っている人に出会ったときでも、自分を損なうならばそれはやらないほうがいい。自分の中が満たされていて、余っているものを分けることが大事である。


ふたつめは、嫌いな人や罪人をも好きにならなければいけないという考え方である。愛することを受け入れることだと勘違いしている人たちが、大嫌いなのに親のそばから離れようとしなかったり、性格が合わなくて疲れるだけなのに友だち付き合いを続けていたりしている。

来る者拒まず去る者追わずをポリシーにするのは、神とその従事者たちだけでいい。そもそも、誰かを嫌ったり拒んだりすることは愛の反対ではない。愛の反対は憎しみというけれど、憎しみとは相手に期待してそれが裏切られて自分が傷つけられることで湧くものである。

誰かを嫌ったり拒んだりすることに、相手に対する期待はない。私は私であり、あなたはあなたであるということを認めているから、あなたとは合いませんねと違いに気付けるのである。嫌ったり拒んだりすることは相手を尊重するひとつの形であり、相手のありのままを認める愛なのである。


みっつめは、ギブアンドテイクそのものについての誤解である。まず、人間関係がギブアンドテイクであることは事実である。仕事は労働を対価にお金をもらうし、家族や友人などというのも結果として居心地のよさを与え与えられているものである。これが一方的に我慢したり損をする状況になると、関係に終わりがやってくる。

神から人間への愛が親から子への愛に例えられることがままあるけれど、親子の愛すらも限りがあるからこそ、無償の愛はフィクション的存在に思えるのも仕方がない。

そこで出てくるのが、イデア(真実在、ブラフマン、空)の概念である。我々は、肉体・意識の中では独立した存在であるが、意識の下、宇宙の中では全てがひとつに繋がっていると考える。あるものを右手から左手に持ち替えても、また両手で抱えてもそれは変わらず自分の手の中に存在しているように、無償の愛とは私の中にもあり、あなたの中にもあるもの。共有するものなのではないだろうか。

その人が苦しみを乗り越える力を共有すること。それが無償の愛であり、癒しであり、希望なのではないだろうか。



・愛とは何か

まず始めに言っておくと、これから様々な用語が出てくるけれども、今までのnoteでそれらを単体で深く掘り下げているため、今回は簡潔にまとめたいと思う。表現の仕方にも色々あるが、今回はヒンドゥー教(バラモン教)の教えを基礎として使用する。


哲学も仏教もヒンドゥー教もキリスト教※もイスラム教(スーフィー※)もジャイナ教も全ては、自己を律し神との合一を目的として、苦行・瞑想・祈りなど諸々の行為を行っている。(キリスト教は悟りについての直接的な表現は少ない。イスラム教全体では悟りの伝統はないが、一派には神との合一を目的にするものが存在している)



①ヒンドゥー教を用いた例えVer.

まず、自己を律し全てに対して平等な心を持つ(ヨーガを極める)ことで、喜ばず悲しまずの寂静(解脱、悟り)に至る。

寂静に至ることで、梵我一如を達成する(アートマンとブラフマンが同一の状態に至る)。全ての神々はブラフマンから発生していることから、梵我一如を達成した我はある種では神と化す。


ここで例え話として、唯識説が登場する。

「『大乗起信論』によれば、心という映画館において、真如というスクリーンに、念という映写機が、諸法という映画を映し出している。念をなくせば、諸法という映画は終わって、真如という純白のスクリーンだけになる(大乗起信論成立問題の研究より)」


念を無くすことがつまり寂静(解脱、悟り)に至ることであり、それが純白のスクリーンになった状態である。

自分で好き嫌いを決める、大事だと思うものを大事にするということは、つまり純白のスクリーンの中に新たな世界を創造するということ、神として世界をつくるということになる。

ブラフマン(宇宙の真理)から複数の神々が発生したように、自分が創造した世界というのは神のとある一面でしかなく、しかしそれも神であるため好き嫌いを選ぶことを恐れる必要は全くないということである。



②まとめVer.

例えを交えると複雑に感じる人もいると思うので、例え抜きでまとめてみる。


自己愛とか社会の常識とか欲や情etcに一切惑わされない状態になったとき、他人のために生きている状態(神に創られた存在)から、自分で自分を生きられる(神として世界を創る)ようになる。

そうすると、悩みや苦しみから解放されて、自由に、自分自身にとって本当に良いと思うものだけを選べるようになる。

「汝隣人を愛せよ」とか「慈悲の心を持て」とか言われるから嫌いなのに好きにならなくてはいけないとか、自分の意志を持つことはいけないことのような気がしてしまうけれども、実際は自分の気持ちに素直になることが結果として全ての生き物のためになる。なぜなら、全ての人が自分にとって本当に良いものだけを選んだとき、全ての存在が選ばれるからである。



③まとめのまとめ

キリスト教では「神は愛だ」というけれど、梵我一如を達成し神になった我が、好き嫌いや合う合わないで物事を選んだとき、それは愛なのではないか。

つまり、

愛とは、「選択」することなのではないだろうか。



・共感は愛なのか

これも賛否両論がありそうだけれど、私は共感はするべきではないと思っている。


例えば、この発言を聞いてどう思うだろう。

「アフリカでは貧しさに苦しんでいる人が沢山いるのに、私は恵まれた国に生まれてしまって申し訳ない」

「いじめは、された人が苦しそうでかわいそうだ。やった人は最低な人間だ、許せない」

「殺人はいけないことなのに、あの人は親を殺してしまった。でも今まで親からされたことを考えると、むしろよくやったと思う」

これらは果たして、相手に寄り添っていると言えるだろうか、優しさであると言えるのだろうか。


自分が恵まれているのが申し訳ないから自殺したら、苦しんでいる人は救われるのだろうか。

いじめの直接の現場に出会ったときは、何かしら自分にできることをするべきかもしれない。しかし、過去の話を持ち出して、された人を「あなたはわるくない」と持ち上げたり、やった人を「最低だ」と批判することは、果たしてそれぞれの為になるのだろうか。いじめられた人は、いじめに関係ないことでも「過去が今をつくっているから」と全部いじめた人のせいにしたり、みんなが慰めて構ってくれるからそこで立ち止まって幸せになることを諦めてしまうかもしれない。いじめた人は、批判ばかりが気になって、なぜそれがいけなかったのか、どうしたらよかったのかを気付く機会を失ってしまうかもしれない。

嫌いだからと言って殺してしまったら、自分で苦しみを取り除くという成長のチャンスがなくなってしまうし、それ以外の選択肢に気付く機会も失ってしまう。殺されたほうも例え極悪人であろうと、気付き学ぶ機会はこれから沢山あったかもしれないのに、本人以外の人間がそれを奪うことは果たして善なのだろうか。

共感とは、あくまで自己愛からくるものではないだろうか。


目の前に悩み苦しんでいる人がいても、共感しない。

相手の苦しみを深く理解する心を持ちながら、あえて共感しないことを選択するのである。

それが、その人の行為を尊重するということ。思いやり。苦しみも含めたありのままを認めるということなのではないか。


結局その人の気持ちなんて、本人にしか分からないのだから。批判しない、肯定もしない。隣にいて、ただ黙って頷いてあげる。それが、相手への励ましであり、愛なのではないだろうか。


























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