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諸法無我、私を形つくるもの

はるか昔、働くとは生きることそのものだった。

労働=農業で、食べるために働き、生きるために働いた。


しかし現代は、必ずしも生きるのに必要ではない職が増え、結果自分の人生を見失う人が増えたような気がする。

便利で豊かになったはいいが、溢れすぎて本来の意味が見えなくなってしまった。

たとえば、刺身にタンポポ(つま菊)を乗せる仕事は、あったらいいけどなくてもいい仕事である。突き詰めてしまえば、第一次産業(農業、林業、水産業)以外は、無くなっても人は生きていけるのである。

自分のやりたい仕事に就けた人はひと握りしかおらず、大多数の人は妥協したもので仕方なく働いている。自分のやりたいことでもなく、しかもそれが「生きるのには、なくてもいいこと」だとしたら、「なくてもいい仕事をする自分は、果たして必要なのか」と自分の人生を無意味に感じるのは自然なことではないだろうか。


昨今の情勢により、クラブハウスやホストクラブなどのあったらいいけど、生きるのには必ずしも必要ではない職業が迫害されつつある。

お互いが尊敬し合えず、社会の歯車としてただ生きているような現代、「そこに愛はあるのか?」と私は分からなくなっていた。



・自分とは有であり無である

お釈迦様は初めに、私たちの生活する娑婆世界は、

諸行無常(しょぎょうむじょう):この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している
一切皆苦(いっさいかいく):一切は皆苦であると知ること
諸法無我(しょほうむが):本来、我(われ)となる主体はない

の三法印を説かれた。


・諸法無我とは

たとえば、犬と猫は動物でまとめられる。

猫と植物は生物でまとめられる。

このようにどんどんまとめていくと、最後のふたつは「有」と「無」になり、それを最後にまとめられるのが「空(くう)」となる。

有でもあり無でもあるとはどういうことか。

たとえば点は、空は有でも無でもある状態。

点の定義は「円の中心」である。
円の中心は存在するか?→円があるので存在する。
それは見せられるか?→見せられない(点には幅がない)
→見えた時点でもっと小さくできる

このように有であり無でもある空は存在している。


「自分」についても同じように説明ができる。

自分というものの存在は確かに感じられるが、ではそれを見せてくれと言われればそれはない。

「ある」し「ない」。つまり「空(くう)」。

それが「自分」なのである。

だからいくら自分探しをしても実体としての自分を確認することはできないのだ。

これが、諸法無我の指すところである。



・生きるとは

やりたくないことをやらされたり、自分を押さえつけて生活していると、人は生命活動をしているに関わらず、「生きてるって言えるのかな」と疑問を感じるようになる。

逆に、故人や死んだペットなどのことを想うとき、「彼らは今も、心の中で生きているんだよ」と言ったりする。


つまり「生きている」とは、愛し愛されている状態のことである。

自分を失っていると、愛されていると感じないから生きているのか分からないのであり、たとえ死んでもお互いが愛を持っていたなら、それは永遠に生きているのである。



・NOは拒絶ではない

ほとんどの人は、ほんとうにやりたい仕事には就けなかった。NOと言われ、必要とされなかった。

しかし、NOは拒絶ではない

ひとつの愛の形なのだ。


悲しい時間も、愛されていなかったわけではない。

日々、出会いや別れを通して愛とはなんなのか、自分とは何者かを学んでいくのである。


だから、やりたい職につけなかったり、心から気の合う人に出会えなかったりしても、自分自身になることはできる。

愛は凄く身近にあるもの。

自分は一人ではないことに気付くとき、人生は開けるのである。






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