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髪を切り、アートマンを知った

先日、ウエストの辺りまで伸びた長い髪を40cmくらい切った。髪は女の命とも言う、正直美容室を出た後は言いようのない悲しさを感じた。

なぜ切ろうとしたのか、始まりは一年以上前に遡る。


はじめに弁解しておくと、仏教とヒンドゥー教についての話がでてくるものの、うろ覚えと独自解釈が多分に含まれるため、正しい教義ではない可能性を承知していただきたい。



・無我

人間は三相(無常、苦、無我)について妄想を抱いており、この妄想によって人は苦しむ(無明)。この妄想を除去することで苦しみを終えることができ、清浄への道である。(Wikipedia 三相より引用)

期待と執着が、全ての苦しみの源である。お金や健康、家族や友人などの人間関係や社会的地位、全ては「我がもの」と思うから、思うようにならないことに苦しみを感じるのではないだろうか。

そこで私は、自分が大事だと思うもの、「なくてはならない」「必要だ」と思うものをひとつひとつ手放していくことにした。

そして手に入れたのが「無」である。


何にも期待しないし何も執着しない。目の前にあればもらう(食べる)けれど、なかったらいらない。あれをしようとか、これが欲しいという気持ちが湧かず、与えられた環境をただ受け入れ、義務(労働)だけを淡々とこなしていく。

無欲。何も欲しがらないし、何もしようとしない。

そこに待っていたのは、寂静ではなく、まるで草木の死んだ大地のようだった。

確かに、悲しみ、苦しみをほとんど感じなくなったけれど、喜びや、楽しい嬉しいという気持ちも感じなくなってしまった。もはや生きているのか死んでいるかも分からない。

そんな日々を一年以上も続けてきた。



バガヴァッド・ギーター

仏教の教えである無我を極めてきたが、何かがおかしい、何かが足りないという気を感じていた。ここでひとつの宗教という枠に限界を感じ、手にしたのは「バガヴァッド・ギーター」というヒンドゥー教の聖典である。

釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた。初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された。これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている。(Wikipedia 無我より引用)


仏教の輪廻転生や解脱などの考え方は、釈迦が産まれた当時主流だった、ヒンドゥー教(バラモン教)の価値観が大きく影響しており、仏教の前身ともいえる存在である。

ふたつの中で決定的に違うところは、「無我」と「真我(アートマン)」という考え方である。

ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える。これは個人としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人としての我であり、よって個我とも訳される。このアートマン(真我、個我)は、宇宙の根理(宇宙の全てを司る存在)(ブラフマン)と同一(等価)であるとされている。それぞれの義務(王族なら王族の、社会人なら社会人としてなすべきこと)を行いながら、自己を制御し神(ブラフマン)を信じることで解脱に至るという考え方をする。

一方仏教は、縁起の道理によってアートマンの存在を否定し、自分の内部に不変の実体や本質というものは存在しないから、苦の原因(我)を取り除くことで解脱する。世間の生き方を脱して悟りを開かない限り、あらゆる生命は輪廻を続けるという考え方である。


このバガヴァッド・ギーターを要約すると、『血を分けた兄弟と戦争をしなければならなくなった主人公が、家族を殺してまで生きていたくないと嘆き戦うことを放棄しようとしたとき、神が現れて「結果にこだわらず、王族なら王族としてなすべきことをして、私の意(こころ)を結びつければ最高の成就に至れます」と説いた』という話である。


私は自己を徹底して制御し我を無くすことに努めてきたが、結果として心はただ息をするだけの植物状態になってしまった。これが死ぬ間際の老人だったらよかったかもしれないが、人間は生きている限り行為をしなければならず、お金を稼いだり身なりを清潔にして最低限の人との関わりを持つことは辞めることができない。世間の生き方を脱したくても、義務を放棄することはできないのだ。

それに、人との関わりを辞めること、何もしないことが解脱に繋がるとは、私には思えなかった。

そんな現代人にとってこの聖典は、一筋の光のように思えたのである。



・神を信じ、髪を切る

バガヴァッド・ギーターの中で、神(クリシュナ)は繰り返し「私を信じなさい」「私に帰依、献身しなさい」と説いている。

正直「結果に拘らず、社会人としての義務を果たす』ことはできていると思っていたので、自分に足りないものは神を信じることだったのか!と私ははやとちりをした。

私の中に「無」が「在」るのは、神を信じていないから。神がみえないのは、神を否定している不届きものだからだと考えた。


髪は、私にとって唯一の「我」の象徴だった。10代半ばまでずっと短くしていたのだが、高校を中退し肩書き、社会的な所属を無くしたことと、年齢的にもJ Kブランドを失ったことが衝撃になり、「私は女性というジャンルで社会に属している」ひいては「私は私である」という証として伸ばしはじめたのだ。

その、最後の砦となった我(髪)を捨てることで、煩悩の象徴、世を捨てて神に献身する決意表明になると思った。本当は坊主にしようと思ったけれども、一度短くしてからでも遅くないと思い、とりあえず40cmくらい切ってショートカットにしてみた。


しかしどういうことだろうか、髪を失っても、神が見えるどころか感じることもなかった。

私は金をドブに捨てるような行為をしただけだったと気付き、胸の内はただ悲しみで満たされていった。



・自己とは何か

『アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。
不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は叡智が確立した聖者と言われる。
すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎しみもしない人、その人の智慧は確立している。
亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している』


バガヴァッド・ギーターの第二節の中でアルジュナ(主人公)にむけて、クリシュナ(全てを包括すること神)が放った一説である。

すべての欲望を捨て、愛着なく、自己において満足するということは、無欲で、何も持たない(所有しない)ことだと私は思っていた。

しかし、大切なものは失って初めて気付くと言うけれど、唯一大切にしてきた髪を捨てたとき、「自分が大切に思うものは、大切にしていいのだ」ということにようやく気付いたのである。


ここでいう「自己(アートマン)において満足する」というのは、自分の願い、未来を他者に委ねない。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。それだけでいい、自分で選んでいいということだったのだ。

おいしいものが好きならいっぱい食べていいし、物を集めるのが好きなら部屋一面に飾ったって構わない。捨てるべき欲望とは、他者に期待すること、他者の期待を生きることなのだ。「これが好き」とか「あんなことしてみたい」「こんな自分になりたい」という気持ちは、欲ではなく自己(アートマン)なのだ。そして、その気持ちに忠実に行為することが、自己に満足することであり、感官の対象から感官の全てを制御する(ヨーガ、平等)ということではないだろうか。


すべては自分の中にあり、自分が選ぶものが真実である。

アートマン(自己)と、ブラフマン(宇宙の全て)は同一である(梵我一如)。

自分を信じるということが、すなわち神を信じることだった。



「神は、ずっとそこにいたのですね」

私は気付けば涙を流していた。














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