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誰をも愛するとは
「この世の人間みんな好きって、つまり誰にも興味無いってことじゃないの?」
Gさんは続ける。
「それってさ、"甘え"だよね。相手に責任を押し付けてて、卑怯じゃん?」
それを聞いて、私は目から鱗が落ちた。
私は人が好きだ。
人が犬や猫を見て愛おしく思うように、私もどんな人も愛おしい。
小さい頃はよく、「危ない人に近づいちゃだめ」と教えられたけれど、"危ない"というのはこちらの価値観であって、相手にとってはそれが人生でその中で喜怒哀楽も感じているのだ。
「正義や正しさは、立場によって変わる」
という言葉があるように、相手の人生の善し悪しを決めてはいけない。(と思っている)
だから今まで、騙そうととしたり、利用しようと考えて近づいて来る人たちも、そうだと分かっていながら「来る者拒まず」で受け入れてきた。
理由はそれだけではない。
私自身が、「偏見」から拒絶されたり、自分自身を見てもらえなくて悔しい思いをしてきたから。
その痛みを知っているから、私のせいで悔しい思いをする人がいないように、という思いもあった。
しかし、ある出来事がきっかけでそれは間違いだと気付く。
ある人に「お前なんか嫌いだ死ね!」とまで言わせてしまったときのことだ。原因は"相性"、価値観の違いだった。
まず、そんなに人を嫌いになることがあるんだ、と驚いた。
そして、そんなことを言いたくなるくらい、相手を傷つけてしまったことが悲しかった。
実は私も最初の頃から、薄々気付いていたのだ。「なにか合わないな、ちょっと違うな」と。
でもいいところ沢山あるから、こんなところが好きだから、と見ないフリして付き合い続けてきてしまった結果、「大嫌い」を招いてしまったのだ。
この時ようやく分かった。
私は平等な人なんかではない。人を選べない優柔不断で、人間関係を育む責任を相手に押し付けていただけだったのだと。
またある時のこと。
英会話の勧誘をしている人に、道で声をかけられた。
「興味無いので」と立ち去ろうとしたところ、「待って」と袖を掴まれた。
「この人は話を聞いてほしいのかな?」
と思った私は、その後5時間ほど聞いていた。
帰りますと何度も言ったけれど、ちょっとだけでいいからと袖を掴まれ、とうとう建物の中に連れ込まれてしまった。
いよいよ契約書を渡されたとき、「やりません」と言ったらとても驚いた顔をして、「出ていけ!」とつまみ出された。
その時私は、「5時間も話を聞いた仲なのにどうして?」と理解出来なかった。
それを聞いて、Gさんは言った。
「詐欺師なり、セールスの人なりさ。彼らは生活をかけて相手を呼び込もうとしてるわけ。引っかからない人に話をしても無駄じゃん?あなたがそれを分かっていながら話を聞くのは、相手の時間を奪っていることになるんだよ」
それは交友関係でも同じこと。
付き合う人を選ぶことは、相手のためになる のだ。
人には相性がある。
「この人とは付き合うのをやめよう」という決断が、時として相手にとっての優しさになる。
「選ぶ≠偏見」
選ぶことは、偏見と同じではない。
大切なのは、自分と相手の違いを認めてあげること。
「あなたはそういう人なんだね、そう考えるんだね。
でも私は、こういう人と付き合うことに決めるよ」
これが、人を選ぶというということなのだ。
最近の私は、趣味を通してポツポツと友人ができた。
趣味や同じ価値観を持つ人たちと付き合うことを選択した結果、毎日が楽しくなった。
自分は人を選ぶことが怖かったんだと気付いたのだ。
「どんな人も好き、どんな人でも愛おしい」
という気持ちは今もある。
しかし、どんな人とも付き合いがあると誰にも中途半端になってしまって、結果として誰にも興味が無いようにも見えるということにも気が付いた。
関係を育むのに大切なのは、付き合いの深さによって態度を変えていくこと。
だから私は今日も、人を選択する。
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