振り返る

季節が巡り、今年も残り僅かとなったが人々は何を思うのだろう。

今年はどんな年だったかと振り返ろうとする時、殆どの人は例えば「富士登山に挑戦した」とか「楽しい時間を過ごした」のような、出来事や結果を思い起こすに違いない。しかしそれらは現在にある結果であり、果たして過去とは言えるだろうか。かつては現在であったものは、どのようにすれば過去として認識できるのだろうか。

私が今感じているのは、時間が過ぎ去ったという感覚と、昨年とは同一ではない自分がいるということだけである。


あの時これをしたというはっきりとした記憶はあっても、それは二度と現在には存在できないものであり、酷く曖昧で幻のように不確かである。私は、確かにそれを経験していたにも関わらず、かつての現在は、こぼれ落ちた砂のようにどこか深く遠い場所に置き去りにされているのだ。

そこで、過去と現在、そして未来を区別するために、まずサルトルの「存在と無」で語られている時間の概念について、私なりにまとめてみる。


・時間とは継起であり、「多(瞬間)」の総合である

・現在が終了して未来がやってくるのではなく、気付いたら未来がやってきていて、故にかつて現在だったものは終了されている

・未来を「選択」し、現在を脱出することで、未来が新しい現在になる(超出)

・未来を「選択」することは、新しい現在の「開始」であり、かつては現在だったものの「終了」である(選択=開始であり終了である)

・開始(終了)は瞬間(現在)ではなく、開始を選択しようという意志が発生した時点で選択は終わっている(意志=選択の"結果")。それは「意志よりも深い自由」であり意識の生きることのできない「無」の中に存在している。


人間は、あるべき自分という「未来」を選択することで、かつての現在を脱出し新しい現在を開始する。それが過去・現在・未来の区別をつくり、時間という継起をつくりだしている。

人間は最初は何者でもない。つまり、人間の本質とは「無」である。人間は後になって人間になっていくのであり、自らの歩んだ人生が"本性"になっていくのである。

選択とは、意識の生きることのできない「無」である。選択された時点ではまだ意識的な決意がされておらず、意識は「選択」が完了されたあとで、既に選択された自己を決意する他ない。自由とは、意志が「選択」を支配することではなく、選択が人間の本質と同じ「無」の瞬間に存在すること。意識が現在から脱出(超出)する「無」の瞬間があるが故に、人は自由なのである。人間は自由であるが故に、時間を生きているのである。


この脱自という意識の構造、自己の外へ出る(超出)という言葉の響きから、殻を破るとか過去の自分という屍を乗り越えるというような、破壊的な意味合いが想像されやすいように思う。しかしこれは、例えるなら年輪のようなものである。かつての今の自分を、未来である新しい今の自分が包み込んでいく今の自分が、過去の自分にとっての希望となるように生きていくことが、過去(自己)の外へ出るということではないだろうか。

つまり過去とは、自身の選択の積み重ねであり、現在の自分自身そのものなのだ。

人はあらゆることに意味を求めがちであるが、自分は何者であるか、生きるとは何かなどどうでもよく、強いて言えば「生きるとは、生きているということ」、生きるとは「生きている、ただそれだけでいい」ということではないだろうか。人間が果たすべき義務は自分自身になるということだけであり、過去の自分を希望へと導いていくことだけだろう。

だから、過去を振り返るとは「今の自分が、生きているということを認める」ことであり、「よくやった、よく頑張った」と励まし褒め称えることを、本来すべきではなかろうか。



「人生は、後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない」とは、キルケゴールの言葉である。

人生は後ろ向きにしか理解できないのだから、反省はしても、後悔はしないことである。

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