人生の不安

私達は歴史の中でしか存在を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。

(ジョルジュ・バタイユ、「エロティシズム」より)



人生は不安との戦いだ。

最近、というよりいつものことだが、夜ベッドに入り一日を振り返ったとき、酷烈な不安に襲われる。

特に友人と楽しく過ごした後は、どうしようもない空虚感が心を蝕み、楽しいだけの人生に激しい後悔を抱くのである。

楽しく仕事して、楽しく友人と語り合い、やりたいことをしておいしいものを食べ、幸せに老いて死にました。

そんな、そんな人生でいいのか。

それだけでいいのか、それしかできないのかと、もう一人の自分が常に訴えかけてくるのだ。



小学生の頃からの友人と、似たような話をする機会があった。

「大学生になって、常にぼんやりとした不安がある。高校生までは絶対的な目標があったのに、受験の終わりと共に全てを失ってしまった。」

一体何を目指していけばいいのかと、彼女は苦悶の表情で訴えてきた。

何をしても時間を無駄にしている感覚があって、ただ流れていく日々が胸に開いた穴を大きくしていく。

昨年は無駄にしてしまったけれど、今年は充実させるぞと彼女は言うので、「逆に何をしたら充実させられたと思うの?」と聞いてみた。

うーんと唸って、顎に手をついて悩んだ末

「くだらないことだけど、プリン巡りがしたい」

と彼女は笑った。



冒頭に挙げたバタイユの話によると、人は自分の存在を客観的な変化の中でしか捉えられないらしい。

だから、自分の中ではいかに変化があろうとも、それを他人に知ってもらわないと何も変わっていない、存在しないのと同じなのだ。

私も友人も、客観的には決められた中で決められたことしかしていないから、自分が本当に存在しているのかさえ確証が持てず、不安になるのではないか。

生憎、私たちは特別な個性を持たず、歴史に名を残すことはないだろう。偉人になれない者たちは、自らの存在をどうやって歴史に刻みつければいいのだろう。


歴史、の意味について考えてみる。

1 人間社会が経てきた変遷・発展の経過。また、その記録。2 ある事物・物事の現在まで進展・変化してきた過程

バタイユの言うそれとは、数分 数秒の中であっても、他人の中で感じられる変化があれば歴史である。

友だちがより好きになったとか、道端で倒れている人を助けたらとても感謝されたとか、他人の心に変化があるかということ。

会社の中で実力を認められ役職に変化があったとしても、それは「歯車」としての存在価値でしかない。

私の友人が、大学で真面目に努力しているにも関わらず「時間を無駄にしている」と感じるのは、他者との心の交流が少ないと感じているからではないか。


要するに、歴史の中に存在するためには他者の内面に影響を与える努力をし続けなければならないということだが、やるべきことはそれだけではない。

他者もまた、観測することで存在できるのである。

この人といると、こんなことが楽しいなとか、こういう部分を尊敬してるんだよなと、積極的に知る努力をすることで相手は生きられるのだ。

そして、それは他も同じ。

楽しさも悲しみも、暇だってじっくりと味わってあげることで存在できる。

プリンを食べて幸せだと思った一時も、「くだらない」と言うことで無駄になってしまうのだ。



身近にいる人を大切にして、暇や苦しみも味わい尽くすせたなら、きっと後悔や疑問を感じなくなるだろう。

そして無駄にしたと感じる日々でさえ、愛おしく思えたなら、それが自分の歴史に変わっていくのだ。

次に友と会うときには、彼女が有意義だと思える時間を、プリンと共に提供できる自分でありたい。











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