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教祖になる

ある人が、突然「生きているだけでありがとう」教を始めた。


高校一年の秋の日、尊敬しているアル中の女性が突然「生きているだけでありがとう」しか言わなくなった。

「ゴキブリも生きているだけでありがとう」

「苦しむあなたも、苦しめるあなたもありがとう」

「どんな人もありがとう」

私が「生きているのが辛い.......」と言うと、すかさず彼女は「生きているだけでありがとう」と言ってきた。


それからすぐ、私はネット禁止読書禁止の社会から隔絶された環境に身を置いたため、その女性とは縁が切れた。

どうしてそんなことを言い始めたのか、何を考えていたのか聞けずじまいだったが、それが却ってよかったのかもしれない。

「生きているだけでありがとう」って何?

生きているだけで、なんでありがたいの?

自分嫌い、社会が憎い私には意味が分からず、雨の日も風の日も、晴れの日も秋の日も、冬を超え春を超え、流れる月日の中でひたすら考え続けた。


しかし1年経っても答えは出ず、環境が変わりネットや本が自由に読めるようになって、私は浄土真宗について調べはじめた。

尊敬していたその女性は、真宗大谷派の教徒だった。



浄土真宗は、どんな人も今のままで救われているという教えである。

他の仏教とは違い、難しいお経を覚えたり、苦しい修行の経験を積んだり、欲望を切り捨てることを必要とせず、高額なお布施も無い。

すごいなと感じたのは、「暗闇にいるから、光があるのがわかった」という格言。

どんな環境でも、ありのままを受けとめ見方を変える、どんなことにも感謝する姿勢が素晴らしく、これは彼女の「生きているだけでありがとう」によく似ている。


しかし納得できないのは、「仏様は見ていますよ」「仏様の眼を持ちましょう」という信心の考え方だ。

現実では誰も自分を見てくれなかったとしても、仏様は見ているから安心?それって、現実逃避なのではないか。

仏様は存在するのか、そもそも仏様に認められたらどうだというのだ。

心の疲れている人間には、そんな不確実な話を盲目的に信じる余裕などない。



そこで始めたのが「自分教」。

自分が教祖で、自分が教徒で、自分が神の、自分だけの宗教である。


学びがあれば発展もある。

インドで生まれた仏教が派生して、様々な日本の宗派が開かれていったように、私もまた私という宗派を開いた。


きっと、「生きているだけでありがとう」も「南無阿弥陀仏」の変わりだったのだと思う。

彼女の教えを元に、お経の代わりに「ありがとう」を。神の代わりに自分のものを信じることを。

自尊心が低くても、自分を信じている訳ではなく自分という宗教を信じているので、責任は他所にあるから安心だ。

そのうち、自分そのものに自信を持ち、精神的に自立して、自分の力で立ち上がれていた。



今の私は心の拠り所を必要としなくなったので、自分教を脱会した。

でも、神は仏かアッラーかキリストなのか、姿形も存在するかも分からないけれど、感謝する対象がいないときにありがとうを言える存在として「神」を信じるようになった。

自分に関わりのある人もない人もありがとう、動植物にありがとう、酸素にありがとう、二酸化炭素にありがとう。

いのちにありがとう。










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