お願いづとめ。理を振る。
おつとめと言うと、月次祭のおつとめと朝夕のおつとめを思い浮かべることが多いと思います。
それに加えて、いくつか思い浮かぶおつとめもありますが、私にとって身近なおつとめは「お願いづとめ」です。
本当に困ったことが起こったとき、なんとかしていただきたいとき、いわゆる困った時の神頼みのように、お願いづとめをすることもあります。
「おつとめ」を敢えて意識しなおした今、このお願いづとめが今までと少し違って感じています。
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お願いづとめで、私がすぐ思い出すのは、1日六回のお願いづとめをされる先生です。
お願いづとめで現れる、神さまの働きについて先生なりの悟りもありますが、晩年はたすかってもらいたい方一人につき六回のお願いづとめをされていました。
なぜ六回なのかは、昔は昼三座夜三座(一座は座りづとめからてをどり後半まで)のお願いづとめがあったそうで、それを元に悟らせてもらったようです。
それにならい、自教会の会長さんも同じようにお願いづとめをしていることもあり、思い出すのです。
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僕自身、なんとか神さまの思いをわからせてもらいたいと思い、おつとめをする回数の目標を決めました。
それには、毎日の朝夕のおつとめ以外にも、おつとめをしないと届かない回数を設定しました。
おつとめを意識しているがゆえに、簡単に手が振れない気持ち、このままではお願いづとめが出来ないという気持ちに、初めてなりました。
ああ、おつとめは手を振ってるんじゃなくて、理を振ると言うのはこういうことなのかもしれない、と気付かせてもらいました。
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将来はひとだすけに専念したい、という思いがあるんですが、普段いかにひとに思いを馳せているのか、という部分の弱さを感じ、
たすかってもらいたいと祈るだけでなく、神さまに働いてもらえるように、日々の行いをもう少し意識しないといけないとも感じ、
その二つをより意識することで、お願いづとめに真剣に向き合って、理を振ることができるのではないかと気付きました。
また明日から一歩ずつ「おつとめ」に向き合って、自分と向き合って、前向きに進んでいきたいと思います。
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