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「消えたスクープ」イラク-2004-4月

バグダッドの通りを次の取材地に向かって走っている時、イラク人の護衛兼コーディネーターの電話が鳴った。契約している東京のプロダクションからだった。

〝元気でやってると思うけど、気をつけて取材頼みます、さっき3人の日本人がイラク人テログループに捕まったらしいんだ〟

〝、、、〟、一瞬オレは耳を疑った。〝というわけだから、大津さんも危険な動きは止めてください〟

〝止めてください〟、そうハッキリと言われた。自分ではガンガン行きたいけど、場所が場所なので契約先の願いは無視できない、正直、捕まった奴らには、〝なんで今なんだ〟という気持ちが湧き、〝分かりました〟、と答えたもののどこか納得できなかった。東京からの電話連絡によればイラクの武装組織に3人の日本人が人質として捕まり、組織は解放の条件として日本の自衛隊の即時撤退を要求しているという。

イラク戦争が終結してから一年、ファルージャで新たな武装組織の蜂起、反攻が始まった今、最も微妙で危険な時だ、どのようなセキュリティ(安全)対策をこうじてアンマン(ヨルダン)からバグダッド(イラク)に入ろうとしたのか知る由もないが、ただ、時の状況と場所を考えた時、どこまでも慎重にまた謙虚であるべきだったと思う。紛争地、危険地帯取材で〝security安全〟を超えるプライオリティーはない。無事成田、あるいは関空に着かないかぎり、編集も報告会もないのだから。その時点でアフリカ体験は35年余、紛争地取材もソマリア、スーダン、コンゴ、そしてルワンダ内戦/虐殺など15年近く経っていた。日本では本当の意味でのsecurityのプロはほんの一握りしかいないと思っている、当然securityに対する関心、情報、インテリジェンスも極めて軽視されている。

「情報(収集)」にはhumint(ヒューミントhuman intelligence)とsigint(シギントsignals intelligence)がある、当然だが個人レベルでの情報収集能力には限りがある、とくに衛星情報を駆使してありとあらゆる通信、連絡情報を網羅するシギントは個人のよくするところではない、個人レベルではせいぜい私的体験を基にした人間ネットワークの構築、駆使、あるいは直感といったアナログ的アプローチがせいぜいだ、ところが、現代の最先端情報がヒューミントとシギントの片方が欠けても成り立たない、この私的ネットワークの持つ情報収集、処理能力は軽視できない、それどころか、状況によっては十分パワフルでシギント以上に有効であり、信頼性も高い。

●アンマン/出発延期

ドバイでエミレーツ航空からヨルダン航空に乗り継ぎオレはアンマンに入った、予定のバグダッド入りは3日後の4月1日(2004)だ、ホテルにチェックインの後、身体を休めつつ、関係機関と連絡を取りながら情報収集にあたった。最も重要なのはアンマン-バグダッド街道の安全確保だ、バグダッドのカウンターパートのフセインと電話で話した、盗聴(テロリストへの移動、位置情報漏れなど)の心配以上にリアルな街道筋の状況がなによりも気になる、フセインもまた、バグダッドに本拠地を置くプロの輸送会社と緊密に連絡を取り、道路状況をオレに伝えてくれていた。

その連絡が来たのは、出発準備も整い、気持ちの覚悟(不安の克服のようなもの、だいそれたものでもない)もできた31日の夜だった。携帯の表示を見るとバグダッドのフセインからだ、今ごろ何かと思い電話に出た。「明日早朝の出発は取り止めだ、明後日、2日、時間は予定通り朝5時に迎えの車がホテルに行く」

「何があったんだ?」

「今日、バグダッドの手前のファルージャで米軍の関係車輌が襲われ、護衛のコントラクター(民間軍事会社の武装警備員)4人が殺された、明日の出発は危ない」

フセインの声はさほど深刻ではなかったが、慎重で警戒感にあふれていた。「1日置いたくらいで大丈夫なのか⁈」

「問題ない、大丈夫だ」

「オッケー、シュクラン!」、オレは電話を切った、何故か、迫ってくるような不安もなく翌朝を待った。

しかし後になって事件の詳しい状況を知り、事件の重大さに衝撃を受けた。危機一髪難を逃れた思いが強い。

ファルージャはイラク・スンニ派にとってスンニ・トライアングルを形成する重要拠点の一つだ、戦争終結、有志連合による占領後、ファルージャには治安維持のため重装備の米軍が入ってきた、2003年には米軍による住民への発砲事件があり、多数が死傷、米軍に対する感情は悪く、反感も強い。バグダッドへの出発直前、そのファルージャで事件は起きた。殺された4人のコントラクターの死体はユーフラテス川に架かる橋に吊るされた。メディアは後にそれを93年にソマリアで起きた米軍特殊部隊とソマリア武装組織との激闘を彷彿させると書いた。ソマリアゲリラが発射したロケット弾が米軍ヘリコプターに命中、撃墜されたヘリコプター(ブラックホーク)の乗員の死体が興奮した地元住民によって街中を引きずりまわされた。衝撃的映像が全世界に流れ、その後米軍はソマリアから撤退した。

●アンマンーバグダッド街道

4月2日、朝5時キッカリに車がホテルの玄関先に入ってきた、デカい、クライスラーGMだ。まだ暗い中すぐに出発した。明けやらぬアンマン市街を抜け、最後の町でチャイを飲んで出発すると、一面荒涼とした岩石砂漠の風景が広がってきた。ヨルダン・イラク国境で出入国の手続きを済ます、多勢いの人間が列をなしていたが、その割にはスムーズに手続きを終えた。

再び車に乗り込みイラク側に入ると、一台のランドクルーザーが道路脇に止まっていた。車の後部座席からは、ワザとなのか、自動小銃の銃身の先がのぞいていた。ここに武装した車があるぞとそれは主張していた。

ドライバーの他に三人の武装エスコートが乗っていた、オレの車のドライバーとコーディネーターがなにやら話しこんでいる、道路状況、とくにファルージャ事件の確認らしい、オレも車を降りてあいさつに行った。190cmは軽く超しているアリと呼ぶ男がリーダーらしい、オレはよろしく頼みますと声をかけた、アリは、〝no problem〟といって白い歯を見せた。護衛車とオレが乗っている車との入念な打ち合わせがすむとすぐに出発した。ここからバグダッドまでは一瞬たりとも気の抜けない文字通りdangerous roadだ。

護衛車からは相変わらず銃身が道路に向かって突き出ている、それが鉄則のようだ。撃つなよ、撃ったら即座に反撃するぞ、のぞいた銃身はそう言っていた。護衛車は最初は後ろに、次に前に出たりとポジションを変えながら、われわれの車を引っ張っている、速度は120キロ前後を保っている、緊張感がひしと伝わって来る。

途中、トイレ休憩をとった、オレは小さな小屋の側で用を足した、驚いたことに、アリがオレから7、80センチの超至近距離で銃を構えながら立っていた。砂漠の方に目をやりながら、至近のオレを常に視野に入れている。これが、セキュリティーsecurityのプロなんだと実感した。しかも撃ち合いに応じる覚悟もできている、砂漠に放尿しながらアリの身体から発散する緊張感にオレは圧倒された。

●ファルージャ

トイレ休憩の後はほとんどノンストップだ、道は広大な大地を時に大きなカーブを切り、また時に、ゆるやかに下りそして上る、バグダッドに近づくに連れて、少しずつ家並み、町並みが見えてくる。前方に大きな町並みが近づいて来た時、車の中に緊張が走った、頭上を通過した案内板にFalluja と書かれていたのをかろうじて確認した、ファルージャに入ったのだ、車の中ではアラビア語が弾んでいた、オレも窓外に目をこらした、だが、米軍関係者が襲われたのは街道筋ではなく、もっと街中で、ものものしい警戒感と緊張感以外、痕跡は見られなかった。

ファルージャを無事通過すれば後は一気にバグダッド目指して疾走するだけだ、早朝5時アンマンを出て10時間以上が経過していた、たとえバグダッドに近づいても、依然護衛の車はわれわれの車から見える範囲にしっかりとついている。やがて道路ばたの街並みにざわつきが見え、陽もやや西に傾き始めたころ、二台の車はバグダッドに入った。途中これといったトラブルもなく無事輸送&セキュリティー会社のオフィスの前に車は横付けされた。

会社から目の前のホテルに続く道路には何重にも鉄条網が張り巡らされ、やや離れたところには数台の米軍戦車が睨みをきかせていた。われわれは無事を喜び合い握手を交わした、チームリーダーのアリとは一際固い握手とお礼を言った。本物のプロの仕事を見させてもらった。アンマン-バグダッド、彼らにとっては日常仕事、ルーティンかも知れないが、会社の連中もみな、笑顔で握手を交わしていた、オフィスの中でしばらく談笑した後、アリはどこかへ消えて行った。

オレの到着を待ちわびていたコーディネーター兼ボディガードのフセインが来た、横幅の広いガッチリとした体格だ。初対面だが、全然そんな感じはせずオレたちはガッチリ握手をした、これから約二週間オレの命は彼の手の内にあるといっていい、一見強面だが、笑顔のいいナイスガイだ。

●今回(2004年)のイラク取材の目的はーー

アメリカ軍によってサダム・フセイン体制が倒された時、欧米のマスコミメディアによって流された一枚の写真、映像があった。大勢の群衆に混じり10歳前後の一人の少年が引き倒されたサダム・フセインの銅像の頭をスリッパか何かで叩いていた、今回、その少年を探し、さらにイラクの現状をレポートすることだった。

オレが東京のプロダクションから連絡を受けたのは、少年とは別にちょうどスクープ的情報を得た直後で、その夜、スクープ取材を実行しようと思っていた矢先だった。

〝バグダッドに行く途中で三人の日本人が地元武装勢力に捕まったんです〟〝大津さんも絶対に無理しないでください〟〝お願いします〟、と念を押され電話は切られた。どういうことだよ、、、腹の中で舌打ちをした、なんで捕まるんだよ、、、私は使わなくなった寝袋に目をやった。車はちょうど米軍が支配、管理するグリーンゾーンを通過していた、この一帯だけはほぼ完全な安全ゾーンといわれている。

それにしてもなぜこのタイミングでよりによって日本人が捕まるんだ、、、ファルージャで不穏な動きがあり、過激派が米軍関係者を襲撃したニュースも届いているはずた、自分なんか東京にいる時から、何度もバグダッドのエージェントと電話でやりとり、安全面の確保に神経を使ってきた。

●「スクープ」

前日、わたしと相棒のHは、シーア派本拠地のサドルcityを取材した。すべて飛び込み取材でやっていた何軒目かの家、家族の話しは衝撃的だった、話しを聞いた家長の老人の目はインタビュー中一度もぶれずただ一点を見つめていた、見つめながら、後ろの壁に貼ってある殺されていった息子たちの魂を背負っていた、老人(家長)は、みな戦いの中で死んでいったこと、とくに米軍によって殺されたことを語った、通訳も兼ねた相棒は同じシーア派ということもありその悲しみを私に伝えた、そうした話しの中で、私にとって〝スクープ〟的話しが出た。

〝最近、毎晩米軍のハンヴィー(ジープ的武装自動車)がやってきて、無差別に撃ちまくって行きます、私の息子、隣人もそのメクラ撃ちで命を亡くしました〟、老人はHに語り、Hは私に訳した。

〝夜、静寂を破るように、銃撃音が響きます。街の人間たちは銃声と同時に部屋を飛び出し様子をうかがいます、でもその高さがきわめて危険なのです、ちょうどハンヴィーに据えられた機関銃の高さと家の塀の高さが同じくらいになり銃弾は頭部を直撃します、息子もその銃撃弾に当たって命を落としました〟

そう語る老人(家長)の重すぎる話しに引きずり込まれながらーー〝今でもそれは起きてますか〟、そう私は聞き返した、背後の壁に架けられた死んだ者たちの肖像写真が私を見ていた。

〝もちろん最近は毎晩来ては道路沿いの民家に向かって発砲しながら帰っていきますよ〟、そう言いながら老人と小さな部屋に集まっていた者たちは私を見つめた。その後老人は思いがけない提案をした、〝今晩か明日の夜あたり、ここに来て泊まりませんか〟〝きっと衝撃的映像が撮れますよ〟、言われて私の心は大きく動いた、すぐに相棒のHを見た。Hは、〝賛成だ!〟ジャーナリストなら撮影して報告して欲しい、いかにアメリカが我々の生活と人権を破壊してるか世界に伝えて欲しい、Hはそう私に言った。

気持ちを固める必要もあり、私は明日の夜来ると返事をした、〝オッケー!じゃあ明日の夜、寝袋を持って来てください、待ってます〟、老人を囲む男たちも口をそろえて待っていると言った。明日の再会を約して私と相棒のHはサドルcityを後にした。それにしても、バグダッド駐留の米軍が夜な夜なそんなことをしてるなんてまったく知らないし、聞いたこともなかった。もし本当にそうした映像ーー夜の闇の中、ハンヴィーに据え付けられた機関銃から住宅街に向けて無差別に発射される銃弾、閃光、、、を撮ることができたら、たしかにスクープ性の高い映像かもしれない。

私は相棒のHと明日の夜の計画について話しながらホテルに帰った。翌日寝袋を持って市内を移動中、東京から連絡があった。〝スクープ〟は消えた。