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#2020年振り返りと、#2021年の抱負

みなさん、明けましておめでとうございます。渓声山色です。

年末、年明けいかがお過ごしでしょうか。年越しそば、お雑煮、おせち...などなど、美味しい華やかな料理の多いこの時分ですが、かくゆう私はいつも通りの生活。少しお酒を飲んで寝ておりました。

年はじめは、いつも何かしらの書き物を残してきたので、今年もまた書き残しておこうと思います。

#2020年の振り返り

早速ですが、昨年の振り返りを。

こういった話から始めるのは、(いわゆるソロモン・アッシュの「初頭(プライマシー)効果」論を踏まえたうえで)印象に良くないと思うのですが、ネガティブな話から始めさせていただきます。

■ 思想関連の書籍・イベントに触れる/出席する体力がなかった

就職後すぐの頃は「給料をもらいながら、空いた時間に研究するぞ」といきこんでいましたが、実際に初めてみると、空いた時間はあるものの、なかなか思想関連の書籍・イベントに手が届きませんでした

理由の一つとしては、頭のスイッチが切り替えれないとでも言いますか、仕事終わりにいざ(たとえば)「ブルーメンベルクの書籍を翻訳するぞ」と思っても、それが実際に目の前にある「仕事」に(すぐには)直結しないため、なかなかモチベーションが上がらなかったことがあります。

もう一つの理由に、広告代理店・マーケティング領域という仕事、いわゆる「知能労働」(否定的に言えば「ブルシットジョブ」)に従事していたからかもしれません。人が一日に頭を働かせられる時間は3時間ほど、とどこかで聞いていましたが、仕事終わりに頭を働かせられるエネルギーが皆無と、痛感させられた一年でした。

※ デイビット・グレーバー著『ブルシットジョブ』

上の理由から、ブルーメンベルク哲学研究会にあまり参加できなかったのも、個人的には悔しく思っております。

緊急事態宣言以後、精神的に不安定に

昨年4月に緊急事態宣言発令後、会社の方針で「在宅勤務」になりました。

もともと「インドア」な私で、休日もほとんど外に出ないこともあったので、「余裕」と思って過ごしていたのですが、これが間違いでした。

5月、6月と時を経るにつれ、人のちょっとした言葉遣いや、振る舞いに神経質に。些細なことで怒りやすくなり、実際に数名の方に不快な思いや、迷惑をかけてしまいました。

人と対面で会えない状況は、なにかしらストレスフルだったのかと思います。

そんなとき、家に来てくれて一緒にランチに行ったり、Web会議で長々と話に付き合ってくれた友人には、感謝の念でいっぱいです。私自身、自分が「強い存在」と自負していたのですが、自己認識の誤りにはじめて気づかされました。

※ その時に、なんとか気持ちを保とうと読んだ本

生来の「適当さ」を反省した

これは仕事での話ですが、私自身、昔からかなり雑で、物事を突き詰めるのが苦手です。

そうした中、仕事上でも、もう少し頑張ればもっと良くなる場面で、つい手を抜きがちでした。

これが割と仇となって、時間がたつにつれ大きな負債を抱えていました。改めて反省する日々を年末に過ごしました。

関係者に迷惑をかけたり、それで謝罪する場面、「なにをやっていたのだろう」と空虚な気持ちになることも多く、2020年ははっきり言って失敗の日々でした。言うまでもなく「完全」は不可能ですが、「最善を尽くす努力」を怠っていたこと、反省しています。

※ その様は、さながらイソップ寓話の『アリとキリギリス』のキリギリスのようでした


ここまでは、ネガティブな話でしたが、ここからはポジティブな話です。主に成長した面でしょうか。

自分が評価されたいという気持ちと「さよなら」できた

もともと研究をしていて、その分野に割と自負があったのですが、いざビジネスマンとして振る舞い始めると、耳を傾けてくれる人、評価してくれる人が少なくなります。

自分にとっては価値あることなので、人に認めてもらえない時、うまく伝えられない時、評価されない時に、実は結構落ち込んでいました。

見返すと、私自身、高熱のものを触ったときにおこる「脊髄反射」のように「どうや知ってるぞ」という高慢な振る舞いになっていたのですが、考え直すと、そのやり取りに疲弊していることに気づきました。

どこかで、思想関連のことで「認められたい」「評価されたい」という「私」がいたことは確かです。

ただ、反省も踏まえ、評価される/されない、すごいと認められる/認められない、この2原理で話が進むどうでも良さと、「私」という存在のどうでも良さに気づき、「私」を消滅させることが多少なりともできてきた気が済ます。別にどう思われていてもよい、むろん、権利が侵害される場合以外には。

※ その時に読んでいた本。

自己消失から創造へ

自分の「価値」というものがどうでも良くなったことで、誰にも求められてないが、ただやりたいことができるようになりました。

一つはYoutubeでのゲーム実況です。チャンネルを開設し、今も定期的に配信しています。ゲーミングPCほか、機材や関連した情報を集める楽しみに気づけたことも、人生の展開期かと思います。

※ 開設したYoutubeチャンネル

もう一つが、Podcastです。一人で話をするのはこんなに大変なのか....と思う日々ですが、個人的な趣味の「短歌」と「書籍」に触れた内容を発信していけたらと思います。(まだまだ質は低いですが)

こうした「創造」をする中で、次第に自分も精神的にゆとりが保ててきました。

これは最近つとに考えていることなのですが、いわゆる「クリエイティブ」な側面は、それが金銭を求めていない取り組みである限りで、非常に心を豊かに遊びをもたらしてくれる行為なのかもしれません

はっきり言えば、お金をもらってやる制作には、色々な利害も多く、作っているうちに疲弊していました。本来、何かを創造することは好きなのですが、どうも身の入らない、心から共感できないことが大半です。

マーサー・ヌスバウムが、書籍"Not for Profit"のなかで、いわゆる「STEM」に対して役に立たないとされる「人文科学」の教育上の利点を述べていますが、 Profit(利益)の関わる、またそれに還元される行為というのは、通時的にみて一過性・持続可能性の少ない取り組みになりがち、様々な可能性(想像力)の欠如と、たとえ可能性に気づいていてもできない(ケースが多い)、など、空疎な行為で終わりがちです。

また、人間の行為を、labor(必要性に迫られてやる行為)、work(形に残るものを作る行為)、action(政治的行為)、と3区分したハンナ・アーレントの著作『人間の条件』も思い出します。いわゆる"labor"のみこなすばかりでは、人間性というものを削らされる日々だ!と感じさせられる日々です。

そうした時に、YoutubeやPodcastなど、誰も求めていない、利益にならないが、やれる行為に、非常に救われています

そして、「人間はみずからと直接的な関係を持つことができず、むしろみずからが作りあげたものによって、間接的に自己を理解する(迂回)」という(カッシーラーやブルーメンベルクから学んだ)発想を、熟考するきっかけにもなりました。

自分は(それこそデカルトのいう「エゴ」のように)、アルキメデスの点みたいな確固とした存在ではなく、作ったもの、創造したものによって支えられていると感じる日々です。

#2021年の抱負

2020年の振り返りをしました。ここからは、2021年、渓声山色が何をしていきたいか、語ろうと思います。

■ エージェンシー(agency)について考察する

「広告代理店」「マーケティングエージェンシー」という職業上、ここ最近、agencyという立場について考えさせられます。

とりわけ、コロナ以後、日本全体において市場の収縮が進むなか、多くの会社の広告宣伝費削減、そもそもの「パイが小さくなる」(クライアントの経営難・クライアントが稼いでいる市場の収縮)などによって、制作ほか、代理店に頼むよりも、より安価で済む内製化(インハウス)への志向が強くなっていくのではないかと考えています。

「代理店」という立場上、クライアントが自らやれることが増えるほど、あたりまえですが仕事も減ります。私自身は、個人的にはそれで良いと思っています。各企業自らが、作る楽しみと大変さに触れて、最終的に成果に結びつき、達成感を味わうのは、非常に嬉しいことです。

ただ、そんな中、改めて「代理店 agency」とは何か、を考え直す必要があるなと。日本の(古くからある)代理店の仕組みはどうだったのか?メッカであるアメリカとの差異は?なぜagenyが必要「だったのか」?そしてなお必要があるのか?あるのであれば、これから先必要なagency像とはなにか?などなど、勝手にまとめていこうと思っています。

Online Etymology 辞典を見ると、「agency」とはもともとラテン語の"agentia"からきているそうです。1650年には、active operation、1670代には、a mode of exerting power or producing effect、を意味していたそうです。agentiaはagereの現在分詞、"agentem"から引き出され、名詞化されたもので、agentemの意味は、effective, powerfulを意味しています。元のagereの意味は、to set in motion, drive forward; to do, performで、比喩的に、incite to action; keep in movementとしても使用されていたようです。

実際に現代的な意味、「誰かのために、代わりに仕事を行う組織(establishment where business is done for another)」という意味で用いられはじめたのは、1861年と記載されています。※ 書籍などで確認できる範囲で、という話ですが。

もともとの動詞 agere 意味「to set in motion、drive forward」、いわゆる「物事を前に進める」立場に、これからのagencyはなっていく必要があるのではないか、と少し考えております。社内上の利害関係や決まり事など、なかなか進められない案件があった場合に、社外の存在であるagencyが必要となる、という具合にです。

もちろん、これはぱっとした思いつきなので、実際の研究はこれから。上記について、今年は少し考えてみようかと思います。

ブルーメンベルク研究書のnote記事を投稿する

11月に、ブルーメンベルクの研究書をまとめたnoteを書くといったのですが、まだまとめられておりません......

もともと、こちらの記事にあるように、自分が研究で苦労した経験もあり、「どこかの誰かに資するために」、参考になる研究書もまとめようかと思っております。

私が死んだあとでもよいです(noteが残っているかわかりませんが。。。)、もし研究者や、ブルーメンベルクに興味を持つ方に資すればと、ただまとめを作っています。

私自身、博士時代に成し遂げられなかったこと、とはいえ歩いた道はすであるので、それがこれから先、同じ道を歩む人の参考になればと道路整備していきます。

■ 「慰め(Trost)」について考える

コロナ以後、不確実で不安な日々が続く中、いまだに不透明な時代に生きている我々です。

仕事上、また私生活においても、なかば(悪い意味での)レトリックを用いて、日々「答え」を与えていかないといけないのですが、はっきり言って、これから先に何がおこるか、そして何が正解なのかは、誰もわからない状態かと思います。

そんな中、答えを与えない状態を耐えれる力、そしてその状況を生きることのできる能力、いわゆるネガティブ・ケイパビリティが注目されています。テクノロジーの発展や状況の変化によって、スピード感をもって対応しなければならないこの世の中において、スローに生きること、安易に解答を与えず、答えのない世界を生きる能力の価値を、自分は痛感しています

ただ、それはかなり過酷な状態です。

これまで自分は、いかなる問題も解決できる技術・表現、そして人間の前進(「自己主張 Selbstbehauptung)に希望を寄せていましたが、どうしようもならない昨今の状況を目にして、そしてすでに述べたように、自分自身の弱さに気づいた時、改めて「弱さを生き、前進よりも状態保持と安定化のために必要なことは何か」と自問しています。

そうした中、ブルーメンベルクに戻った時、ふと「Trost」という言葉が見つかりました。「慰め」です。それについての研究書も出ています。

まったくもって何もまとめているわけではないのですが、私はこの言葉に惹かれて、今後は「慰め」の観点から、ブルーメンベルクを読み、なにか言えるのではないか、と「感じて」います。

その切り口で、ブルーメンベルクを読み解けるか、今年の挑戦です。

※『慰めの倫理』という著作

最後に

忘れてしまわないように、今年の抱負を書かせていただきました。

あくまで忘備録、モノローグなので、読んでくれた方には感謝いたします。

みなさんが良い年になるよう、心から願っております。

そして今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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